ケネス・バーク『恒久性と変化』76(翻訳)

Ⅴ.犠牲行為の「完成」

 

 ある意味で、我々は陳腐な事柄を再発見しているに過ぎない。実際的な政治家が、敵とでも共有されるものを使って同盟を結び、一時的に相異を棚上げすることなどはごく「自然」で「正常な」こととして誰でもが認めているからである。それでは我々は、最近になって「スケープゴート原理」のマキャベリズム的使用の可能性を再発見したことになる。


 「スケープゴート原理」(聖職者や修辞家によって使用され、人類学者や政治行動の理論家によって研究されている)は確かにここに含まれるものである。そして、我々がそれについて一般的に知られていることを概観するだけにしても、それが社会的動機づけのいかなる用語法においても突出した位置を占めることは明らかであろう。(陳腐な事柄であることは、人間の用語法や組織的行動において占める高い位置を奪い去るものではない。)しかし、我々は更なる一歩を思い描くことになる。


 自然主義的、あるいは実証主義的に心を見ている多くの人間は、儀式的なスケープゴートを単なる「幻影」と見なしている。彼らは、野蛮人、子供、政治的扇動家、物語作者などが、その使用法を教え込まれる必要もなく、そうした仕掛けを無意識のうちに使うという意味においてそれらが「自然」だと認めている。実際にはそれは必要ではない。自然主義的な知識が行きわたることによって、人類はこうした自然な弱さに免疫を持つようになるだろう。


 こうした人々は通常、科学的な精神を涵養することによって、儀式的(象徴的)犠牲を使うことによって実際的問題を解決しようとするような感受性に対して抵抗できるようになると感じているようである。そして、こうした傾向がめぐりくるものである限り、問題は断片的に解決されるものだと思っているようである。結果的に彼らは悪魔を取り逃がしその軍団を相手にすることになるだろう。つまり、最終的にはこう言うことになる。B級映画の悪漢は治癒的効果のある犠牲としておこう、ラジオの道化にはまた別の効果があり、殺人ミステリーの死体にもまた別の、プロボクサーの壊し屋はまた別、真剣勝負も別、政治キャンペーンの一時的な騒ぎも別、仕事場でライバルに仕掛けられたイタズラも別、庭の雑草を取ったり煙草の吸いさしを乱暴にもみ消すのもまた別、等々。我々の文明が労働と余暇のおびただしい多様性によって特徴づけられている限り、それは断片的なものであり――その限りにおいて、治癒的効果を持つ犠牲行為もそれに応じて断片的なものとなるように思われる。


 しかし、ここにはまた、断片化の条件そのものが包括的な治癒の必要として感じられ得るという意味がある。断片化は瑣末な事柄をつくりだす。そして、瑣末さに治癒的要素が存在すれば(最近のラジオの「ギャク作家」が「ヤック」という破裂音に示す熱狂に明らかなように、熱心に探し求められる要素)、社会的には病的なある種の組織的な愚鈍さへと積み重なりうる。断片的な犠牲の集積物は、今度それが治癒される必要があるとすると、「全体的な」犠牲を必要とするかもしれない。


 さて、人が十全なる宗教的な意味において真に信心深いならば、ここにはなんの困難もないであろう。というのも、普遍的なる神の完璧な犠牲のことを敬虔に思いかえしてみれば、そこには病的な断片化を矯正するのに必要な全体性の諸要素が存在するからである。そして、そうした神話の基本的な構造は、ギリシャ悲劇の儀式的な犠牲において古典的な純粋さを有している(犠牲行為によるカタルシスが、複雑な筋によって曖昧にされ簡潔性が失われた劇とは対照的に)。


 しかしながら、宗教的な神話という口実を使うこともなく、明らかに物質主義的、操作的、管理的、テクノロジー的面が強化されている社会秩序に直面しようという大きな誘惑が強調されている(新聞の日曜版での取り上げられ方でも証明されているように)。そして、宗教そのものに関しては、いかにその平和的、福音的な側面が軍事的組織的側面の背後に後退してきているかを考えねばならない。


 しかし、我々は宗教を弁護するわけでも攻撃するわけでもない。現代文明で支配的な世俗的な性質によって変化を蒙った完璧なる犠牲の治癒的全体性に言及した際、我々はこうした状況において最も「自然な」犠牲行為とはヒトラー主義的なものになるだろうと考えた(総体的なカタルシスをもたらす友人よりも総体的なカタルシスをもたらす敵という観念を強調する)。


 ここに、明白で完全な贖罪の手段があった。種的に「完璧な」犠牲者を捧げることで、「理想化された」敵を物質的に具体化するからである。


 しかし、断片化の病いの治療薬として敵意の「全体性」を強調したとしても、我々の主要な論点が隠されるのを許すべきではない。罪、神秘、野心(「冒険」)、正当化が絡み合った「秩序」そのものは、眼で見触れることのできる物質的事物にも浸透しており、それを通じて秩序の精神が認められる。この意味において、シンボルを使用する動物として人間は、自分がその一部である社会的秩序から生じる象徴的な靄を通じておぼろげな人間の「動物的」特徴を見なければならない。かくして、人間の組織的な行動に関する経験論的、自然主義的、実証主義的、行動論的、操作主義的、心理学的各観点は、必然的に、物質的属性(事物や方法の)の非象徴的側面にもっともらしい現実性を与えることで、社会における人間の究極的な動機に関して幻影を加えるだけに違いない。


 実験室やオフィスは寺院と同じく精神、土地の精霊が宿っている(その精神はより広い秩序に関連し、そこから権威を引きだす)。そして、こうした動機が本質的にピラミッド構造として考えられないとすると(それに応じた罪と贖罪を伴った)、社会的行動全体の見取り図として適切な用語法を得ることは困難である。かくして、神学と同じように、理想的な用語法は操作主義的なものであるよりは劇学的なものであるべきである。現代のテクノロジーが生みだした新たな所有にどれ程法外な動機づけとしての重要性、またそれらを運用する際の技術の重要性を認めるにしても、理想的な用語法とは、まず第一に、いかに人間とその所有物との関係が「象徴的に」構成されているかを見ようとするものでなければならない。