ケネス・バーク『恒久性と変化』72(翻訳)

補遺 「劇学的に」考察された人間の行動について

 

 [我々はいまでは『恒久性と変化』を、個人が集団的な形で動機に取り組む際の弁証法的方法を説いたものと言える。新しく関連した問題を考慮し、同じ方向性をもったこれ以後の発展を示すものとして、フォード基金の賛助によって1951年にプリンストン大学で開かれた「組織的行動」についてのシンポジウムで発表した論文を、幾分修正して補遺として再録しよう。会議は、特殊な組織に影響を受ける人間の行動を論じようとするときに、社会科学者の導きとなるような理想的な「モデル」を考えるためのものだった。


 幾つかの論文はこの問題を数学的、あるいは科学技術的な方法で扱っていた(「確率論的」理論や「サイバネティック」理論などによって)。しかし、ここに挙げる論文は、倫理的あるいは心理学的用語を好んで使っている。人間の行動は道徳の領域にあり、そこで得ることのできる最良の確実性とは「道徳的な確実性」だという仮定に基づいている。「科学的予測」の希望を排し、むしろ「科学的に提示される勧告」を信じている。つまり、歴史記述をある種のたとえ話、イソップの寓話のようなものと捉え、データに基づいた警告を与え、「我々はこれこれのものを考慮に入れるべきだ」と思い起こさせるものと見ている。


 しかしながら、それぞれの状況を唯一無比なものと捉える純粋に多元論的な考え方とは対照的に、必要な変更を加えて人間のあらゆる連想作用を形づくる関係や発展を包括的な用語でどう名づければいいかがここでは考慮されている。この目的のために、人間の純粋に自然的あるいは生物学的傾向を補い修正するような罪、贖罪、位階、犠牲といった諸動機が強調されている。こうした社会的、言語的に根拠づけられた動機は、純粋に技術的な意味において、自然を完成するものと言える。]

 

 

 行動と目的の領域にある人間の振る舞いは(運動と位置に関わる物理学とは対照的に)、劇学の用語で最も直接的に論じることができる。「劇学」で意味されているのは、知識の理論というよりは行動の理論である。感覚知覚の観察に基づいた用語は、知識の理論に分類されるであろう。条件づけの理論(最も低次元の学習)もすべて同じ分類に収まるだろう。我々はそうした取り組みをする「科学者」(知識や学習によって)がよい結果を生みださないと言っているわけではない。反対に、そうした遠近法は、人間関係の本質的な名詞に数多くの重要な修飾詞をつけることに寄与できる。また、「科学者」の遠近法は、彼らが根本的なものと考える基礎的実験から厳密に演繹されるものではないだろうが、ある種の「跳躍」あるいは不合理な推論によって、狭い範囲での実験をより広い範囲にわたる解釈のもっともらしい正当化を許すものとして使用する工夫をつけ加えて終ることもしばしばある。


 特に人間はシンボルを使用する動物なので、最大限の有効範囲と関連性をその用語法で必要とするなら、社会的行動を論議するための用語法としては動機としてシンボリズムを強調しなければならない。


 しかしながら、人間は属としては生物学的な有機体であり、理想的な用語法では生物学的根拠に基づいた象徴的行動を提示しなければならない。(この発言はシンボリズムが生物学に還元しうるといっているのではない。反対である。)


 こうした純粋に生物学的な意味において、固有な属性は一つの必然である。(「エコロジー」の科学は、下位言語的、言語外的、あるいは非言語的共同体の一員として考えられる生物学的有機体の間の平衡関係を扱うべきものである。こうした共同体の成員は互いに相互関係し合っているので、動物が餌にする草木を肥沃にするように、同化や占有も相互的である。)


 生物学的有機体としての人間が生物学的な意味における属性を必要とするのであれば、シンボルを使用する種に特徴的な本性からして、シンボルに関する類似器官を考えることができる。我々が特に思い浮かべるのは「権利」や「義務」といった言葉である。生物学的には、食物や住居のような生きるのに基本的なものは「権利」ではなく「必要」である。象徴的には、それをもつことは生物学的には必要ではないが、人がもち、あるいは主張する「権利」は属性であり得る。


 「権利」という概念は、特に動機としてのシンボリズムを扱い正当に論じるに際して明らかに生物学的な用語を是認しようとするための疑似自然主義的、形而上学的な逃げ口上である。ジェレミーベンサムの法学者流の言語批判は、「権利」は「自然」にはないと我々に理解させる上で、鋭く助けになる。むしろ、「義務」のように、その形式において言語に頼っている人工的な法の結果なのである。


 道具や方法を発明し、完成させ、伝える際に言葉の働きはあきらかである。(言葉なしに計画され運営される工場や実験室を考えてみるがいい。)しかし、そうした属性あるいは「資本」について人間の見方を形成する際のシンボルの役割の全貌はあきらかではない。一度労働が分業され、属性が伝えられることになると(「権利」や「義務」をつけ加えて)、階級が生れ、階級の間には何らかの「秩序」が存在しなければならないからである。(1)

 

(1)他の動物も言語や道具使用の兆しは見せているにしても、人間に顕著な才能とは、言葉についての言葉を使ったり、道具を作る道具を作ったりするときのように、一度に多重なことをする能力にある。

 

 

 こうした「秩序」は「規則性」と同じではない。それは権威の配分を含む。忠誠と奴隷の曖昧な境界をもつ支配と奉仕との相互関係は、大雑把に言えばピラミッドや位階的な形を取る(あるいは少なくとも、「上下」に進む階段のようなものがある)。


 例えば、社会を結びつける純粋に操作的な動機は、神秘によって活気づけられる。(生活や生存状態の異なった様態により、ある階級の人間は他の階級にとって「神秘」となる。)こうした神秘は原始的な司祭職にほぼ完璧にあらわれており、ある部分は異なった階級の凝集を促し、ある部分は特定の階級に好意を示すことで階級の分断を永続化し、部族全体の繁栄を危険にさらすこともあり得る。


 しかし、我々の社会のように複雑になると、階級の神秘を保持もすれば超越もする通常の司祭の働きは様々なシンボルの使い手たちに配分されることになる(特に、教育者、法律家、ジャーナリスト、広告業、芸術家)。


 司祭流の神秘の強調は(人間社会からの類推によって天界の位階を大まかに想像するときに最も大がかりな表現に達する)、世俗化し、他の役割にも配分され、それぞれが自分の流儀で社会的神秘を扱うことになる。かくして、教育者は学術的な位置を示す証明書をもつ。法律家は自分もその一員である威厳のある体制への敬意と自分に対する敬意を一致させるような様々な方法をもつ。芸術家は、禁欲的な宗教的情熱をロマン主義的でエロティックな情熱へと変える秘訣を見いだし、社会的価値の体系に「妖しい魅力」を与えるのを助ける。ジャーナリストや広告業者は、一方は世界の悲惨さと我々を向き合わせ、一方は最上級の安楽を約束して我々を焦らせることでうまい連携を形づくっており、二つが組み合わさることで十字架のキリストと勝利を収めたキリストの区別を粗雑で世俗的な形で提示している。


 ある部分、多くの新たな道具が世界に強力な世俗的特徴を与えているが故に、神秘の新たな様態が必要となる。またある部分、宗教についての伝統主義者が以前の社会秩序からの残存物であるイメージに相変わらず頼っているが故に必要でもある。それらが時代の疎隔からくる訴えかけの力をもっているにしても、より時代にあったイメージでもって補完されなければならない。


 我々が社会的位階から生じる神秘の要素を強調するにしても、別の神秘、別の秩序が存在することを認めなければならない。夢、創造、死、生の諸段階、様々な思考(その生起、記憶、病い)の神秘が存在する。冒険と愛の神秘が存在する。(属性が部分的には自然で部分的には教義上のものであるように、愛は部分的には自然で部分的には礼儀作法である。)こうした他の神秘に言及することで、我々が神秘一般を特殊な社会的神秘に還元していると思われることを防いでいるわけである。反対に、我々が言っているのはこうである。社会的神秘は、こうした他の神秘がある部分、社会的神秘の靄を通して認められねばならないのと同じように、他の種類の神秘と解きがたく絡み合うことによって、深いところで、説得力、暗示力、錯覚の力を手に入れる。(1)

 

(1)社会的な「諸権利」を「自然権」であるかのように扱うことが適例であるかもしれない。社会的権利はまず最初自然に帰せられ、次にそこから「派生する」。こうした承認のあり方は、「自然」そのものが現在通用している社会政治的原則との類推によって形成される用語論的靄を通じて捉えられている故にまさしく説得力をもつことができると思われる。