ケネス・バーク『恒久性と変化』75(翻訳)

Ⅳ.「二つの重大な契機」

 

 前三節において、我々は次のことを見た。(1)人間に特徴的なシンボルを使用する動物としての性質は、単なる動物としての属の性質を超越し、純粋に人工的な所有、権利、義務が生じる。(2)複雑な社会秩序のなかで必然的な所有は人間関係相互のなかでの社会的神秘による「気後れ」を生みだし、厳密に言うとそれとは密接な関係のない思考の領域にまで浸透する姿勢を生みだす。(3)「官僚制」「位階」「秩序」といった言葉は、権威また礼儀作法の規範との関係故に社会的神秘の領域に関わる。ここで、我々の議論に基本的と考える問題を述べる準備が整った。コールリッジの『内省への助け』を引用しよう。


 「キリスト教の二つの重大な契機は原罪と贖罪である。それが我々の信仰の根拠であり上部構造である。」


 この論文が基づいている仮定とは、人間関係についての社会的用語法は(組織化された諸努力によって特徴づけられた諸条件や、そうした諸条件に対する典型的な反応から考えだされた)、正確かつ簡潔な神学的な定式以上のものを説明しはしないのであり、そうした定式に関して「我々は常に世俗的な等価物と対応する道筋を見て取るのである」。


 基本的に言って、絶対的な「罪」の原理が宣言されると同時に、それに対応した絶対的な罪の償却を意図した原理が宣言されるというパターンである。そして、この償却は、犠牲を捧げることで企てられ、犠牲とするものの適切さに応じて絶対的なものとなる。「罪」が「断片的」なものである限り、「断片化」そのものが「絶対的な」条件であるということは除いても、それに応じた「断片的な」犠牲であれば負債を償却するのに十分であろう。


 端的に言って、ある「原罪」(部族的なあるいは「受け継がれた」罪)が与えられると、シンボルの究極的な論理により、その補償として儀式的に完璧な犠牲が捧げられることが「規範」となるだろう。それ故、宗教的パターン(「原罪」と犠牲による償い)が人間の位階(そうした位階に応じた神秘のありようとともに)における「カタルシス」として適切なものである限り、犠牲を通じて社会的な凝集を高めることは「正常」で「自然」なこととなろう。


 我々はここで最も広い側面から問題を議論している。個々の事例を見れば、「断片的な」スケープゴートの選び方は根拠がなく病的なまで歪んでいるかもしれない。(明白かつ激烈な近年の例として、ヒットラー政権が包括的に考え、ユダヤ人を「完璧な」献げ物として選択し社会的凝集を高めようとしたことがある。)しかし、我々が示唆しているのは、中世ヨーロッパの巨大なピラミッド状の社会構造が、「原罪」と「贖罪」という二つの「契機」に基づいた道徳的浄化の体系において究極的な表現を見いだしたとすると、位階的秩序(我々の知る限り唯一の「組織化された」秩序)に本質的な「罪」はそれに応じた「犠牲を捧げる」ことによる「贖罪」が要求されることになろう。


 我々はそうであるべきだと言っているのではない。キリスト教教義の二つの本質的な「契機」に関するコールリッジの発言に関連して、我々の文化の揺籃期を形成した偉大な宗教的神学的教義(そして、二次的には現在において特徴的な科学的あるいはテクノロジー的観点の揺籃期においても)においてはそうだと言っているに過ぎない。


 今日の作家が、我々の社会のことではなく、ギリシャ悲劇と関係する純粋に文学的な問題を考えるとき、新たな鮮明さをもってこのパターンの論理を感じることが起きている。つまり、「カタルシス」の問題である(アリストテレスが『詩学』で悲劇の定義において強調したものであるが、彼がその観念を説明した部分は失われており、『政治学』に僅かな言及があるが、そこでも詳しくは『詩学』にと指示されている)。典型的な市民的儀式であるギリシャ悲劇は、市民の緊張を解消する儀式であることを目的とされている(その緊張は最終的な分析によれば常に所有の問題に帰せられる)。そして、悲劇においては(アリストファネスの喜劇においてもそうであるが)、犠牲の原理が本質的な役割を果しており、我々は人間の社会というのは、集団の個々の成員が共有しているものの象徴的犠牲なしにはまとまることができないのであろうかと問い始めることになる。


 コールリッジの二つの「契機」と同じように、ここには人間の社会的動機づけの中心部があると我々は言っているのである。注意を動機づけの他の領域に向けるような枠組みは、その洞察がこの中心となる難問へと立ち戻れるものでない限り、手痛い失敗となる。


 ギリシャ悲劇が憐れみや恐れといった感情を喚起することを目的として犠牲行為を模倣し、それによっていかに「カタルシス」(様式的な観衆の浄化)を生みだすのかを自問することで、我々は「正常な」犠牲行為がいかなるものであるかを理解し始める。それは露骨な形で為されることもあり得る。ヒトラー主義は侮辱的なまでに露骨である明らかな例である。しかし、磔刑の教義の裏にある根拠とギリシャ悲劇のパターンを同時に考え合わせると(我々の文化が生じてきた他の大きな流れとしてアザゼルの言い伝えを忘れるべきではないが)我々は犠牲行為の動機がいかに深いものであるかを問い始めることになる。つまりこうである。あらゆる複雑な社会秩序が必然的に何らかの所有構造に基づいている限り、そして多様な側面をもつそうした秩序が全て、神学者が「原罪」として説明するような社会的病いをつくりだすものである限り、犠牲を捧げる儀式が社会的分離の原理を越える社会的凝集の原理を主張する「自然な」手段であることが可能なのではないだろうか。