ケネス・バーク『恒久性と変化』77(翻訳)

Ⅵ.犠牲行為の諸相

 

 ここで、我々の劇学的な考え方に沿った考察を試みてみよう。


 犠牲行為による正当化の様態の一つとして、世俗化された「苦行」についてみてみよう。別の場所で発表された論文「批評家にとっての死観:死と死ぬことについての簡潔な語彙集」(『批評的エッセイ』1952年10月)から引用しよう。

 

 「もし人が甘んじて受ける社会的責任が存在し、良心に従って越えることを望まない社会的境界が存在するなら、野心や侵害に科せられたこうした道徳的な制限はその姿勢において「犠牲的」である。究極的にはそれは、計画的に諸感覚を「克服する」禁欲的な規律に達する。例えば、自己抑制の過剰な勇ましさは、生に対する戦略として組織化され、「死につつある生」に対する崇拝に大きな支えを見いだすことになる。その正反対のことが欲することを為せというスローガンの掲げられたラブレーのテレマ修道院では賞揚されている。


 苦行とは細心かつ計画的に自己に対して制限を課していくことである。ある種の社会秩序を維持していくための必要が、それに応じた個人的良心を必要とする場合もある。そうした必要性の原理が細心に過剰なまでに実行されると、「苦行」を得ることになる。(例えば、私的所有権という条件が一夫一婦制の理想を要求するものであり、そうした理想を徹底し、完全に実行するには他人の妻に対して侵犯するべきでないことが要求されるとすると、「苦行」の規則に従えば、そうした侵犯を望ましいものと思わせるような「感覚」をなんであれ意志的に罰するべきだということになる。)」

 

 こうした考え方は、敬虔さによって意志的に選び取られた純潔を誓うことで成り立っている。しかし、心因性の病いもまた、意識的な規律の規範はないにしても、同じ動機が様々に装われたものであり得るだろう。というのも、それは、いやでもおうでも、自己に反対して為される判断を実行するものだからである。


 「犯罪」も同様の動機秩序であろうが、「自殺」的であるよりは「他殺」的な傾向を持っている。(しばしば犯罪学者によって記されている)諸動機の典型的な逆転を考えてみると、犯罪的な姿勢が実際の犯罪への関与に先行し、その結果犯罪は曖昧で、非現実的で、神秘的でさえある情感が現実にいまここにある何ものかに翻訳されることになる。(この場合、犯罪の感覚が酸のように良心をむしばみ、代わりに単なる空想世界を生みだすような場合よりもより「正常」で「健康的」と考えられる。)


 つまり、我々はその関係が「原罪」と「現実の罪」との関係のようなものだと示唆している(不安やカテゴリーとしての「罪」に対応するような「原罪」は社会的秩序に含まれている。「現実の罪」への誘惑なるものは、こうした一般的な動機を所有権や人格に対する不法な侵害にまつわる個人的な犯罪衝動に還元するある種のこじつけである)。ある種の条件においては、カテゴリーとしての動機がそれに対応する個人的な動機の母体となるかもしれないことを示しているわけである。即ち、絶対的で包括的、あるいは「部族的な」罪と、それに応じた絶対的な取り消しの手段が適切に釣り合ったものでない限り、犯罪は部分的な「解決」の一つとなる。実際、それはある種の統一感を与え、追跡され捕まっていない犯罪者にとって危険は「至るところ」にある。(ドストエフスキーにおける犯罪の「神秘」を見よ。)


 同様に戦いは、その「形象」としての本質において(この本質は軍隊の位階の明瞭なピラミッド状によって補強されている)、その実行よりも見込みにおいてより容易に「カタルシス的」なものとなりうる。敵対の弁証法は、敵を「完璧に」儀式的な役割を果すものと自然に想像し、その犠牲によってあらゆる悪が改善されると考えられるようになる。そして、敵に負わされたカタルシス的役割から生じる間違った見込みは、こうした諸動機が戦争が遂行される際には強さを増していくばかりでなく(「聖戦」となることによって)、平和的な国際関係ばかりか、理性的な軍事防衛の計画のときでさえ高い負担を必要とすることを示している。


 最も研究が必要であり、最も研究がそれと認めることさえ困難なのは、位階の存在そのものが、別のときであれば有用な批評を行うことのできる最も有能な人間たちの間に不当な黙従を生みだしてしまうあり方である。こうした状況はおそらく、小心さや追従からというより、秩序に自然に蓄積された「所有権」のネットワークから生じるものであろう。もし権威にある「位階的精神病質」が、社会全体を混乱に陥れることによって最終的には自らの利害までも損なってしまうようなやり方で、自然な傾向に逆らい特殊な利害を守ろうとするものであれば、そうした精神病質を明瞭かつ方法的に研究する必要がある。


 難点の一つは、人文主義的な教育が無駄に行われる傾向に見て取れる。博士号の典型的な主題を少しでも見れば、いまだに行われている優雅なる見当外れ(「優雅」には疑問符がつく)は明らかである。時宜を外れたものが歓迎され、いまの問題にほとんど助けとならないものによって誤りが広く行きわたっている。間違った前提の詰まった、記章としてさえ問題の多い記章を獲得することを教えるのが目的のようなのである。