ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 8

 確かにその本性から、哲学はもっとも高次のものと交渉し、それ自体が間違っているのでなければ、その固有の性格にそれらのことを認めねばならない。そうした親密さが精神に何らかの影響を与えるのは間違いない。しかし、どんな場合に、その力がどれだけあるかを予測することは困難であり、その性質や方向性を予測することも容易ではない。親近感は、どんなところでも、ある条件のもとでは、軽侮に導かれうる。そして、真性の哲学が、非道徳的あるいは非宗教的な精神で実践されるかもしれないことは、否定することができない。同じことは、身体あるいは精神の側面から人間性を研究する芸術やあらゆる研究にも真であろう。小説家、詩人、画家、あるいは人類学者などの例をとれば、それらのうちのあるものが非道徳的な発想に頼りがちなのはよく知られている。ここでいう必要があることは、一方においてあらゆる研究は自ら限界を定め、他方において、あらゆる研究は同じ原則によって、真率でひたむきでなければならない。いかなる探求も規範となる名誉、あるいは異質な目的や結果に対する愛情へと道を踏み外すことを正当化できない。かくして、哲学者の非道徳的な精神は、もしそれを監視していないならば、多かれ少なかれその哲学を傷つけることになるのは確かだと私は思う。しかし、他方からすれば、同じことは良心や宗教的感覚に普通ではない贈り物をもつことになる。そうした贈り物が支配され、制限されないなら、多かれ少なかれ、哲学や芸術作品を傷つけ、あるいは破壊することに鳴るかもしれない。


 私が言おうとしてことは簡単に言うと、次のようになる。他のものと同じく哲学はそれ自体の仕事を持っており、これも他の仕事と同じく、自らの仕事をしなければならないし、そのやり方が許されねばならない。その限度内でなければ優先権を主張できないし、その範囲内でなければ命令を受けることもできないし、受けてもならない。あらゆるものが主張をもち、考慮される権利を持っているという意味で、哲学にとってあらゆるものが考慮の対象である。しかし、どのように考慮するかというのは哲学だけの問題であり、ここでは、外側からの考察はなんら聞きうるものではない。


 このことから、もう一つ予備的なことを付け加えておこう。哲学は公平にいって信仰と呼びうるものを要求し、最終的にはそれに依存している。ある意味、それを証明するためには結論を仮定することになるといえるだろう。この一般的な真理を細部に至るまで実行するには、一般的な何ものかが真であることを暗黙のうちに仮定することになる。さらに、その結論は細部に至るまで実際に、完全に実行されることはないし、決してあり得ない。かくして、哲学は目標にまで届かないが、にもかかわらずなんとかしてそこに到達する。そして、哲学が最終的にどのようにこの目標に達するのか見ることに失敗し、理解できないことを認めるなら、哲学の目標は哲学の外部に、ある意味では信仰にのみ実現することになる。このことの意味や正当性はここではこれ以上論じず、同じ真理のより明白な側面を示すことで満足しよう。すでに見たように、哲学は探求であり、最終的には真であるものの探求である。そして、この追求の外部にいる限り、最終的に自らに対立するその存在を正当化することはできないことが見て取れた。少なくともある程度彼は探求からは退き、少なくともある程度は、その決定は彼自身の選択や気まぐれとともにあることになる。結局のところ、実際どれほど外部にあり続けることができるのかについては論じるつもりはなく、というのも、この点については自己欺瞞が容易で通例なのは明らかだからである。私は追求しなければならない教義を仮定的な形で述べることで満足しよう。人は真理への追究に入るかもしれないし、その追究を慎むかもしれない。しかし、彼がそこに入ったなら、入った限りにおいて、彼は不可避的に暗黙の想定に従っている。