ケネス・バーク『恒久性と変化』79(翻訳)

後記 『恒久性と変化』 回顧的展望

 

 『恒久性と変化』及び『歴史への姿勢』(それぞれ初版は1935年、1937年)の新しい版の後記では、この初期の二冊の姉妹編が私の仕事すべてを貫く論理(あるいはいまではむしろ「ロゴロジー」と言うだろうが)によって最も明らかに結びついていることを示したいと思う。


 我々を自ら定義を求める動物と見るとき、私のみる限り、人間関係の性質に関わるすべての考察は最終的には、我々が「言語を学ぶ身体」であるという定式に還元される。しかし、この人間に特殊な「言語」の才能には、踊り、音楽、彫刻、絵画、建築といった任意の、伝統的なシンボル体系の能力も含まれているという条件がつく。


 この定式は四つの動機の場(そのカテゴリーは我々が自らの苦境を考えるときの根拠を蔽うものとなろう)に関してその含意されていることを突き止めることが含まれていよう。第一に、生理学的な有機体としての性質と結びついた動機の場がある。第二に、シンボリズム独自の動機の領域がある。第三に、生理的にはいまだ成熟にほど遠く、(口のきけない)「幼児期」に学習されねばならないことからくる、言語の「魔術的」あるいは「神秘的」側面がある――女性から生れたわけでもなければ、疑似エデンめいた幼児期を過したわけでもない我々の最初の親たちが経験することのなかった発達であって、彼らは実際のエデンに既に成熟して存在しており、アダムなどは他の動物を名づけ分類する仕事が委ねられていた。


 第四の動機の場は定式そのものに含まれており、道具(「ホモ・ファーベル」としての人間によって発明された)の累積や配分を可能にする配慮やコミュニケーションを言語は刺激する。ヘンリー・アダムスが「歴史加速度の法則」と呼び、いまでは通常「指数曲線」とよばれているこうした文化的発展の速度や広がりを考えると、人工的なテクノロジーから結果する動機づけの力はある種の「完成」(「意志的な」ものとも「強制的な」ものとも言えるが)を見せ始めている。


 エンゲルスが述べた(「猿から人間に移行するに際して労働の果した役割」という未完成のエッセイにおいて)「伝統的な自然の過程に我々が干渉することによって生じたより直接的かつよりかけ離れた帰結」という観点からすると、こうした変容は我々の歴史以前の先祖たちが成功裡に採用していた自然状態とはまったく異質な生活条件(生存における重大な脅威となるものを含めて)を導入している限りにおいて、「対抗自然」の領域に含めることができよう。逆説的なことに、我々の祖先は、彼ら自身は身を守っていた潜在的な構造的危険(「種類」及び「集中」において)を我々に遺贈したのである。


 こうした高度なテクノロジーの発達を賞揚するべきであるか、致し方ないものとすべきか決める必要はないし、読者に決めるよう求めるつもりもない。ただそれをある種の「運命」であり、人間の特殊な才能の達成と見るよう要求しているだけである。こうした観点からすると、テクノロジーは言語を学習するものに固有の究極的な方向であり、そうした象徴的導きのもと、相互関係を保ちながら人工的な道具の領域が発達していく。その結果、テクノロジーそのものの進歩によって示される多様な方法や遠近法に応じて多岐にわたる、幾分目的を欠いた「多元論的」思考に陥ることになる。こうした豊富さは結局のところ相当な混乱に終りうる。祖先たちが超自然の領域と想像した言語化されるものたちが、いまでは拡大し続けるテクノロジーの対抗自然の領域に対応してその痕跡を多様に変化させているとき、誰が動機づけとして含まれるすべてを正確に言うことがあろうか。


 ロゴロジー的に考えれば、遠く離れた先祖たち同様、生理学的有機体としての我々の身体の「諸方法」は高度に「保守的」であるという事実によって問題が複雑化しているとしても、こうした変容は(どれ程かけ離れたものであろうと)ニーチェ風の「あらゆる価値の再評価」の準備研究としてまとめることができるであろうか。どれだけ変わっていようと、どれだけ多くの「天動説」が我々のなかに生まれ続けているか見分けようとすることは価値のあることだろう。少なくとも、一つのことは確実である。同化、呼吸その他のあらゆる過程において、人間の身体は遙か昔から生理的有機体として先史の祖先たちの行動を特徴づけていた「方法」に「退行する」。「『メタ生物学』の概略」の部分で『恒久性と変化』は、いま扱っているようにではないが正しい方向でこの問題に触れた――とりわけ私が固執したのは、生物学的「方法」という概念が「合理性」と「非合理性」とどちらかを鈍感に選択するような過度に単純化された還元を避ける有効な手段だということだった。


 同じ項目のなかで述べた奇想についても指摘しておくべきだろう。「我々の血液のなかにいる微生物は我々と別個の存在だろうか、あるいは一部だろうか。・・・ことによると、それらはもともとは侵略者であり、身体が飼い馴らすことを覚え、結果的に切り離すことのできない一部として自分のものにしたのかもしれない。」これに十八年後の付記がシロアリの事例を私の「即興的文章」を補強する証拠としてあげている。私はテクノロジーの分析道具が、言語を学ぶ身体で働いている純生理学的過程についてより以上に正確な記述をもたらしてくれると思いたい。間違いなく、生理学的有機体として我々の内部で働くものに対するこうした考察の多くは、モリエールの描いた宗教的偽善家の姿が教会の「高官」たちをいきり立たせたように、正統的なヒューマニストを憤然とさせるであろうし、リチャード・ドーキンスの『利己的遺伝子』のような愉快な機知の奔出に潜む深いファシズムの色合いを見て取る者もいる。しかし私が後記を書いているこの本においては、「利己的、利他的の合併」や「支持手段に倫理性を与える」といった項目が示しているように、一度人間の動機づけにおいて純粋な生理学からシンボリズムの側面に転換すると、いかに遺伝子自体が「利己的」であろうと、言語を学ぶ身体に位置づけられるや相互関係の弁証法的複雑さをもち(正のフィードバックと負のフィードバックとの転換に類似した)、社会的に絡み合った「与えること」と「得ること」を見いだすこととなり、両者の区別は非常に曖昧なのである。


 しかし、いかに象徴的行動の「文化的」領域によって複雑さがますのだろうと、人間の身体を「自然な」出発点として取ることについては、二つのまったく異なる道筋によってその選択を「合理化する」ことができる。トマス・アクイナスの神学的立場を世俗化することによってそこに達することもできる。例えば、「(非象徴的)運動/(象徴的)行動」(『クリティカル・インクワリー』1978年夏号)というエッセイで私は、そうした経験的な目的のために、「物質」を「個別化の原理」として捉えるトマス主義的観点を採用した。というのも、中枢神経を備えた人間の身体は、「物質的」(非象徴的)運動の領域にあるからである。あるいはより直接的な唯物論がお望みなら(その「弁証法的な」要素は、私がロゴロジー的に「象徴的行動」に分類するものだが)、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を出発点にとってもいい。

 

いうまでもなく、あらゆる人間歴史の第一前提は、生きた個々の人間の存在である。したがって、われわれがまず第一に確認しなければならない事実は、これら個々の人間の肉体組織およびそれによって規定せられる人間と人間以外の自然との関係である。・・・すなわち、あらゆる歴史記述は、このような自然的基礎と、歴史の経過中に人間の活動によって惹気されるその変様とから出発しなければならない。
人間は、意識・宗教その他あらゆる点で動物から区別され得る。けれども人間は、食物を〈生産〉しはじめるや否や、みずから、自身を動物から区別しはじめる。食料を生産することによって人間は、間接にではあるが、自己の物質的生命自体を生産するのである。(高橋義孝訳)

 

 人間と他の動物とを区別しうるものとしてあげられているのが「意識」と「宗教」であるが、私としてはあげられているそれらがいずれも「象徴的行動」の側面であることを言えば足りる。しかし、そうした才能(マルクスが本を書く能力とその出版に必要な社会経済的状況双方を含む)は、人間が「象徴をつくりだす、象徴を使用する、象徴を誤用する」動物であったし、現にそうでなければ不可能であろう。人間の状況に特殊な大きな歴史的相違は、そうした才能から直接的に生じるものではなく間接的に、人間に特殊な組織的命名法がテクノロジーによって生みだされた社会的発展において今日高まった配慮やコミュニケーションを可能にする限りにおいて生じるものである――それを私は、超自然物のように定義上自然の外部にあるのではないが、生存のための条件であり、「間接にではあるが、自己の物質的生命自体を生産」し、「伝統的な自然のあり方」に反する「我々の干渉の結果」がなければ存在することのない状況を形づくるゆえに、対抗自然の領域と呼ぶのである。


 正しかろうが間違っていようが、「実在」に関するあらゆる言葉(あらゆる歴史、地学、生物学、天文学といったあらゆる科学、対抗し合うあらゆる「主義」)は、それ自体「象徴的」次元の十分な証拠である。また、多くの伝習される知識(特に精神分析や人類学的な)は、象徴性の「魔術的」「神話的」深みに関連して初期状態の顕著な役割を示し、その事実から我々はもっとも未熟な段階において言語と倫理の基礎を学ぶことがわかる。礼儀作法の精妙さ(「正しく」ものを言い、考え、行動するというスタイル、生き方)は、我々の自己意識が最小限のときに染みこんでいく。「敬虔」と「不敬虔」をめぐる「発見的な」変様(「類推的拡張」を経由した)などを用いて試した『恒久性と変化』での「不調和による遠近法」は、フロイトベルグソン同様、こうした「初期状態」を成熟したあらわれのもと扱っている。言語を学ぶ身体として我々のうちにあるこの動機づけの次元の数多くの多様な側面は、私が本の表題の意味合いをつきつめているあいだ代わる代わる現れ続けた。


 子供が母国語の「正しい」話し方と同時にいかに「うまく」用いるかを学ぶとき、「言説の世界」に語の「魔術」、その「創造的な」役割がつけ加わる(旧約の神が「存在せよ」と言えば存在するようになり、新約の神の化身が神の言葉でありロゴスであるように)。言葉と倫理とのこうした形成期の連合を考えると、どうしてカントが、世界には異なった道徳的規範が存在することに気づいていながら、その倫理学(『実践理性批判』)においてカテゴリーを主張し、ウィルヘルム・ウィンデルバンドが『哲学の歴史』で言っているように、我々は「公準に従って行動すべきであり、すべての存在が理性的に行動できるような普遍的立法に従うべきである」と言えたのかがわかる。「あなたの行動が意志的なものであり、普遍的な自然法則となる公準であるかのように行動せよ」(イタリック原文)こうした「自己立法」の枠組みとなる「公準」がどのように「自然言語」で述べられるだろうか――というのも、どれだけある地方に特殊なものであろうと、あらゆる言語は、暗黙のうちに、どこにいようが変わらずそのように話すこと、どれだけ限定された方言のようなものであろうと、それこそが話し方だと定められているからである。もし人類学者がフィールド・ワークである地域に行くなら、できる限りそこの言葉をあたかもあらゆる場所で話されているべきであるかのようにするだろう。勿論、他の慣習と同じく、言語は変化する。しかし、ある特定の時と場所での言語の話され方は「普遍的な」話され方であり、ある方言はその方言を話す「正当な」話し方である。


 しかしこのことはカントとどう関係するのか。彼は正確には「間違っている」わけではないが、数多くの出発点をもっており、あまりにかけ離れた遠くへと導かれるものなので、私はそれらを捨て去らねばならない(その幾つかは、この本の姉妹編である『歴史への姿勢』の注釈にうまくあてはまるものであるが)。長い間、私はカントのことなどまったく考えていなかった。だが、いま新たに考え直すにあたり、私はなぜカントが姿をあらわしたかだけではなく、なぜカントがあらわれることによって(確かに間接的にではあるが)、遅ればせではあるが、この本がもともと書かれたときの観点とは僅かではあるが顕著な相違を示し、振り返って、その当時は明らかにできなかった多くの混乱を思い起こすばかりでなく、間に挟まった四十年以上の年月の光のもと見直すことで、私を悩ませるもつれを抜けだしたりそのなかから声を上げるすることができよう。


 私の最初の理論的な本は『反対陳述』(1931年)であり、フローベルから受け継いだある種の分裂に基づいていた。彼は「私にとって美しいと思えるものは・・・無に関する本、なんら外とのつながりがなく、スタイルの内的な力だけで維持されているような本であろう。もっとも美しい仕事とは最も少ない材料でなされたものである」と書くことができた。同時に、現在の社会規範に対する彼の軽蔑は、主題として公を公然と侮辱するようなものを繰りかえし選ばせ、『ボヴァリー夫人』の場合には猥褻の責めを受けるにいたった。


 この影響のもと、私は芸術作品そのものを、それ固有のものとして分析され評価されるような内的諸関係の集合として論じることを意図し、文学形式の理論を発展させていった。しかし、そうした形式とスタイルの純粋な原理がどのように個々の事例の細部において「個別化する」のかを考える過程で、芸術化は最終的には聴衆の姿勢に訴えるのであり、その聴衆とは、最終的には、特殊な芸術的伝統とはまったく異なった自然な感受性をもっているのだと認めるにいたった。かくして、結局のところ、表題についた接頭辞を制限して、私は初版の序でこのように述べた。

 

 パンフレットがあり、調査書がある。年齢が進むに従い、作家は学ぶことによって平衡に達する(年齢に応じた学習をするのか逆らった学習をするのかはともかく)――それによってできあがるものを「パンフレット」と呼ぶことができよう。作家はまた、外的な抵抗に関わりなく、自分自身で平衡を発展させたいという望みをもっているだろう――それを「調査書」と呼ぶことができる。実際の作品はおそらく二つの立場を不確定なまま揺れ動くものであろう。作家自身いつが調査書でいつがパンフレットか正確に言うことはできないだろう。また、どちらかを排除して完全な満足は得られない。

 

 私はそのとき考え始めた形式の諸理論をいまだに信じているが(異なった領域に適用され、「劇学的な」変様として残っている)、『恒久性と変化』は結果的に『反対陳述』がやり残したところから始めることとなった。実際に、『恒久性と変化』の「文学的な」発端は明らかである(ハロルド・ローゼンバーグが『ポエトリー:詩のための雑誌』の書評で「『詩以前の』身振りの段階にある詩」として特徴づけたように)。しかし、『アメリカン・ジャーナル・オブ・ソシオロジー』のルイ・ワースの書評は、このテキストを社会心理学に位置づける可能性の議論に力点を移している。このときのフローベルからの「文学的」遺産にはなんら「分裂」は含まれていない。というのも、スタイルの妥当性についての関心はごく「自然に」、社会科学が一般的に中心に据えるような人間関係に向うことになったからである。そして、スタイルの「個人的な」側面はある種の心理学へと向い、私の「誤命名による悪魔払い」の理論は、なぜフロイト流の精神分析学が幾分マルクス主義的色合いをもちながら、この関連において登場するかを明らかにしている。


 『恒久性と変化』は、後に私が非象徴的な運動と象徴的な行動の相違としてまとめることになる強い二元論的な傾向をもっている。しかし、その二元論は、後に、行動主義者の重要な特徴を組み込み、かつ象徴的行動と非象徴的行動とを種類の違いではなく程度の差として考えた行動主義者の一元論的な傾向と自らを区別するのに必要に思われる強調点を欠いていた。パヴロフの「条件反応」とスキナーの「条件操作」の相違は『恒久性と変化』の著者には知られていなかった。それ故、スキナーの動物実験還元論的な解釈の仕方を、「言語的行動」によって特徴づけられる人間の領域に適用したものだと争い合う必要もなかったのである。


 我々が信念の漠然とした背景と呼ぶべきもの――仮定、先入観、迷信、希望、恐れ、傾向、「常識」とそれらに応じた諸慣習と諸関係――は、我々西洋文明が、地域的な神話(キリスト教聖人へと変化した異教の神のように)、地中海的な特徴(東洋からの影響を含む)、ローマがその領土として植民地化した北方の「野蛮人」から派生するヘレニズムとユダヤの初めから二千年以上にわたって発展させ、つくりあげてきた包括的な「状況の文脈」ではないだろうか。『反対陳述』では、私はそうした文脈を漠然と、芸術家が反映活用し、その表現とコミュニケーションの形式を形づくる際の動機やモチーフに変容する助けとなる「イデオロギー」として述べた。しかし、『ドイツ・イデオロギー』を読んでからは、私はその語を「中立的な」意味を持つものとして使用することを止め、マルクスヘーゲルを攻撃する際の用法によって、つまり、ヘーゲルは観念を歴史(絶対的観念を展開する)の推進力として捉えるが、マルクスは観念を物質的「下位構造」において変化する諸条件の「上部構造」における反映でしかないものとして扱ったという文脈に従って読むことになった。ヘーゲル的な「イデオロギー」において、観念はいわば「トップダウン」に降りてくるが、マルクス弁証法では「ボトムアップ」に上ってくる。私はどちらの方向性も「起源に関わる誤謬」を例証するものであり、いかに「象徴性」についての我々の才能が生理学的構造の一部であろうと、一度発展しはじめるとそれ独自の本性を明らかにすることを強く主張するにいたった。


 別の同義語に生への姿勢であり、ヘーゲル時代精神(「一般的風潮」による)の一種である世界観がある。後にトーマス・H・クーンによって導入された「パラダイム」という用語が社会学者一般に採用されるようになったが、私が想像するに、それは、「デザイン」という概念に含まれる発見的で組織的な性質に関する現今の方法論的な考察で顕著なものとなった「モデル」と同じような意味合いをもつこともあっただろう。「受容」と「拒絶」(個人的にははい/いいえの姿勢)の相違とともに、『歴史への姿勢』では「枠組み」という語を多く使い、またときに受容の「枠組み」とも言った――抽象の乾涸らびたイメージの痕跡が読者の検分を受け、それに対する反応が抽象の新たな「超越的」生ではなく、生気のない隠喩に対するのと同じであるように、混合した隠喩は混乱に晒されないわけにはいかなかった。


 『恒久性と変化』の場合、いいにつけ悪いにつけ、私の命名による発見法は次のようになった。包括的な背景に私は「定位」という語を用いた。この語は連続的な段階を広がっていくときには「三角形」を、「脱定位」そして(ある種のハッピーエンドである)「再定位」、形成、脱形成、再形成を形づくる――集団的な「共同作業」を選択する場合には、共同体の多様な部門が互いにうまく調節し合う理想的な状態を「行動の詩」として暗示して終ることもあり得る。


 小さい混乱がここで生じた。詩は批評に先行するものと考えるのが普通であるが、この本は「あらゆる生物は批評家である」という命題から始まっている。しかし、最初の段落の七行目までくると、より特殊な意味である「批評」をより一般的な意味である「識別」に入れ換えたのであるから、憂慮に終った。二つの言葉は同じ語源をもっているが、生物学的な向性があり、状況のなんらかの要素が個々の性質に関して刺激となり、それに応じて有機体が行動を変えるという意味においては、文字通りあらゆる生物は「識別している」と言える。


 ずるがしこい鱒の挿話はより「教化された」識別(あるいは「原批評」)を含んでいる。コールリッジが(『文学評伝』第四章の最後の脚注で)、新たな区別が「自然なものとなり、一般的に使用されるようになると、言葉そのものが我々のために考えてくれるかのようになり」、「それをもって常識を証しするものと言うようになる」という事実を述べたときに同じことを思っていた。私が最も「懸命に探った」考察とは「我々」という代名詞をめぐるもので、巨大な国家の市民である我々すべてが残りの者たちに集団的に適用できる驚異的な語である。「我々」がどこか他の国と戦争をしたとき、「我々」のなかには泥のなかを歩みちりぢりになるものもいるかもしれないし、他の「我々」は戦争による蓄えのことを考えながら殺しをしているかもしれない。我々の国はすべての我々が必要なのである。(勿論、この場合、「我々のためを考える」という我々は区別を曖昧にしている。)


 しかしながら、振り返ってみると、『恒久性と変化』の中間部分の名称の選択は、その当時まったく予見していなかった意味合いをもっていたことがわかった。「脱定位」あるいはその同義語は、システムの内側から、あるいは外側から新たに侵入したものによって起こる混乱を含むに十分なものであった。しかし、「不調和による遠近法」という概念、それと関係した「魔術、宗教、詩、神学、哲学、神秘主義、科学それぞれの知識を意図的かつ無差別にかき混ぜる」というのは、ある種方法論のパンドラの箱を開けるに等しかった。例えば、「不調和の不調和な類別」と題された箇所に見て取れる表現とコミュニケーションの潜在力は、「新たな秩序」の組織化原理を与える簡潔さというよりは、ばらばらででたらめないくつもの「始まり」をよりよく特徴づけている。この場合「再定位」の合理的根拠となったのはある種の計算法であり、より高次の一般化によって個人的分子の行動を記述し、個人としてではなく集団的なある種のガスとして扱おうとしたのである。


 しかし、我々は問題を純粋にロゴロジカルな言葉で扱ったほうが、つまり、厳密に組織的命名の問題として扱ってほうが最適の結果を得られるかもしれない。例えば、「解釈について」と題された第一部の「定位」を問題にした箇所を見てみよう。そこではある定位が確立され自らそれを堅固なものとしていく一般的な様子が考慮されているが、混乱に陥るような発達の仕方もあり得る。こうした光のもと見ると、中間の「不調和による遠近法」は、「新たな解釈」あるいは「再解釈」へいたる診断を要求する諸条件を描いたものであるとともに、それ自体解釈の断片である、試験的、実験的、ときには適切なる発見的解釈だという両面価値的なものと見られる。また、明らかに、最初からこの本が動機づけの問題について頭を悩ませており、ジョン・デューイの用法を使って私が「テクノロジー的精神病質」と呼ぶものに主要な(「特権的な」?)位置を与えているという事実にも注意を向けるべきだろう。


 私の後の著作では、この特徴には別の次元がつけ加えられ、あるいは少なくともよりすっきりとした形を取っており、人間の象徴的な武勇を強調する際には超自然の領域と対抗自然の領域とが対照され、前者は人間以外の動物たちによって経験される自然条件から神話的に発するものであり、後者はよりプラグマティックで、象徴に導かれたテクノロジーの発達によって自然条件が変わることがなければ不可能な破滅の危機(利益の可能性も与えているが)を与えるほど広範囲に広がってしまっている。


 しかし、この点において、私はすでに1953年版の序文においてなした主要な「撤回」について思い起こさねばならないが、そこで私は『金枝篇』における魔術、宗教、科学の区別を余りに「歴史主義的」だと述べた。そして、そのときの回顧として、既に、それらは「言語の源泉において『常に新たに生まれ変わる』動機づけの三側面」であるという観点を提示した。定義により「言語を学ぶ身体」である人間は、その構成要素の性格と比率は文化的状況によって大いに異なっているが、言葉の創造的な魔術、宗教による人格の拡張、実用的な知識(科学)を経験することで新たに生まれ変わり続ける。そして、言語の本性とは、それらすべての源泉がそれぞれの言語においていかに変容されているとしても、内在し具体化されている。かくして、ロゴロジー的に考えると、あらゆる言語媒体がいずれかの要素の廃止を要求したり脅かしたり約束していることで成り立っているとしても、「廃止主義」は不可能なのである。『恒久性と変化』は自然に変様の原理を選択することになる。


 この本は明らかに三幅対となる企図を示している(定位は形成であり、脱定位は脱形成であり、再定位は再形成である)。しかし、ニーチェから取った主要概念を表題にした第二部は、当時私が思ったより自由な働きが認められている。というのも、ニーチェにおいてそうであったように、「遠近法主義」が「あらゆる価値の再評価」を目的としたものであるとき、結果において我々が導入したのは「変様」の原理を普遍化する方法だったからである――この意味において、私の第三段階は第二段階において解き放たれた流れを受け継ぐものでしかないこともあり得る。「再評価」と同義である「変様」は、本質的に拡張していく用語であり、「形成」でさえむしろ「形づくられる存在」に近い(ドイツ語のWerdenが各段階においてはGewordenseinと呼ばれるように)。


 詰まるところ、言葉のない事物、状況、仮定、関係を何と呼び、名づけたり解釈したりするにせよ、どのような名づけであれ解釈であれ我々はそれに関する「データ」をもっており(定義されるものは私の本ではやや不正確ではあるが――必然的でもある――「定位」とよばれている)、この問題(あるいは問題というよりは、我々の組織的な命名法の本質に固有な意味を追求していく上で埋められるべき空欄と言ったようがいいだろうか?)は、既に部分的には述べているのであるが、振り返って、ニーチェ的な観点に即してより正確に述べるよう試みることにしよう。即ち、


 二つの近しくほぼ正確な人間の定義(互いに深く絡み合う経験的な定義)、ホモ・サピエンスとホモ・ファーベルを取り、称讃的な「サピエンス」に替え中立的な「シンボルを使用する」(「シンボルをつくりだす」及び「シンボルを誤用する」を含む)としよう。道具の発明者であるホモ・ファーベルとしての我々の本性について言えば、そうした手順や工夫の基本的な形が「象徴性」のスタイルや才能を欠いた生物学的有機体によって偶然になったものであっても(向性の領域を越えた)、他の有機体は我々の種族のように、そうした道具性の制度化を可能にする配慮やコミュニケーションによって利益を得ることはできない。


 非象徴的な技術的道具性が象徴によって導かれ発達する言葉とものとにある相互関係にもかかわらず(二つの動機の領域が絡み合ってそれぞれを拡張することに寄与する)、最初から、人間特有の象徴性の源泉による可能性のために、原始的かつ自然な状況から発する二つの様態は極端な対称をなしている。一方には、個人的社会的関係性の洗練化があり得(例えば親族体系のような)、それは聖職者によって自然を超自然の神話的な領域に拡張する統治形式によって完成する。他方においては、技術的な展開の可能性があり、発明に発明を積みかさねることによって、先史時代の祖先たちにとっては自然の条件として経験され、十分な出発点となっていたものが、生存条件が変わり、その子孫たちにとっては対照的に対抗自然としてあらわれる。


 人間個人の身体は、生理学的(非象徴的)運動の領域と象徴的行動の領域とが落ち合う地点である。人格的同一性は個人の定位を構成する複合的な諸姿勢(「人格の同等性」)に焦点を合わせる(諸関係の感覚と対応する「現実性」の感覚)。


 さて、動機づけに関する発言を一緒にすることによって当時の難局を解決する試みに戻ると(幾分行き当たりばったりではあるが)、ニーチェの役割は私が彼の名を借りて「不調和による遠近法」という表現をつくりだしたときに考えたより、ずっと「根源的」であることがわかる。しかし、次の段階であるこの点については、幸運な発見をあげることができる。最近まで知らなかったのであるが、カナダのセント・メリー大学社会学学科のマイケル・オヴァーイングトンによる「ケネス・バークと劇学の方法」(『理論と社会』4号、エルスヴィーユ科学出版社、アムステルダム)の一節である。

 

 余りに狭い適用をしないなら、「不調和による遠近法」という概念は社会学に異質なものではない。アメリカの社会学者に関して言うなら、シカゴ学派に適用されているだろう。『シカゴ大学社会学シリーズ』はシカゴにおける調査研究の最良の集成であり、三十五巻にも及ぶが、最もよく知られ学派を最もよく代表するとされているのが逸脱についての研究である。それらを扱った巻においては、「専門職」「経歴」「道徳性」などといった言葉が使われ、異常者や犯罪者の行動の分析にイロニーが用いられている。こうして「尊敬の」言葉と異常な行動とを結びつけることは、明らかにバークが言う言語による不調和を捉えている。

 

イロニーのなかのイロニー!私はイロニーについて長々と述べたことはなかったし、イロニーをこうした文脈で特に考えたこともなかったし(そうすべきではあったが)、いつかそのうちにと思ったわけでもなかった。遅ればせではあるが、そう、かくも「示唆に富む」好意的な議論に出会えて法外な幸せである。何が「イロニー的な」考察の「テキスト」として役立っているかというオヴァーイングトンの疑問がすべての問題をあるべき場所に落ち着かせる助けとなる。


 昔、ベンサムの三組の用語について書いて以来、私は彼の構想をある意味「ベンサム的」にではなく使ってきた。(彼は言葉について憤慨しており、それに私の違反がつけ加わった。)彼は「中性」的な用語に替えて「検閲的な」対となる言葉(「称讃的」あるいは「非難的」)を使うことを目的としたが、私は教育的訓練として、それら三つの姿勢の間を試験的修辞的に転換していくことを提案した――競技者が問題のどちら側に立って論じる用意もしておき、ぎりぎりになるまでどちら側につくか知らされない古くからあるディベート・クラブのやり方のようだが、私の図式では姿勢の柔軟性は厳密にイデオロギー的というよりはより詩的、あるいは劇的である。


 しかし、形を保つ一つの方法としてこうした柔軟性を考えると、このような融通性というものがベルグソン以上にニーチェからいかに遠く離れたものであるか悟らされる。それ故、ニーチェベルグソンは両者ともその遠近法主義によってカント主義者ではあるが、既に見たように、始まりにおいてテクノロジー的自然/超自然の定位であったものが頂点においてテクノロジー的自然/対抗自然の定位に向う本質的な変容を予示していたのはニーチェのものである(ヘーゲルがいたらマルクスとの関係を否定するように、カントも必死になってその関係を否定するだろうが)。(この発展は、我々の魔術的-神話的-そして/あるいは-神学的揺籃時代が個人的な性質としてはいまだ我々とともにあり、新たな身体が生まれ言語を学ぶたびに新たに生まれ変わることでより複雑になる。)


 ニーチェは、肯定か否定かというもつれも含め、こうした絡み合いのなかにいた(姉妹編の『歴史への姿勢』では、「組織化」の問題に関し受容と拒絶を究極的な姿勢として中心に据えた)。そして私は、「再定位」の段階が(人間による自己破壊には及ばない)、超自然において完成に達する自然で個人的な想像から、対抗自然においてテクノロジー的には完成するが、苦しい道でもある道具主義的遠近法への展開に内包された根源的な変容を達成しようとする恒久的な実験であろうと考える。