ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 7

 芸術や哲学に対して、自らの限界を認めることは、道徳にとっては難しいことであり、宗教にとっては余計に困難である。*ここではこれ以上この問題に立ち入ることなく、哲学の領域に侵入することは、健全な道徳や宗教の関心とは反するという意見だけは表明しておこう。そうした侵入は我々の本性に破滅的な葛藤をもたらす。美や真の独立した探求は、それ自体十分な正当化を感じられる。もしそれが義務や善と衝突が余儀なくされるなら、善や義務の反乱や拒絶があり得るかもしれない。我々は、道徳や宗教があまりに不完全で、内的な欠陥によって虚弱化しているので、そうした戦いが引き起こされたとしても、影響を及ぼされないだろう。

 

*この点については第十五章でさらに議論する。

 

 哲学は知的満足、別の言葉で言えば、究極的な真理を求める。それは実在を所持することを求めるが、観念的な形でのみである。それゆえ、それは我々の存在の一側面でしかない。さて、我々の多様な本性の側面のなかで、あるものを至上のものと見なさず、その制限内にあるそれぞれが相対的に至上なものだとする。それゆえ、道徳や宗教からの結果や結論を、認められたものとして、哲学によって受け取られ、受容されることになる。哲学の結果は物質的なものではあり得ない。それはあらゆる種類の事実を認めるが、それ自体の最終的な真理に関して判断を下す。確かに、哲学が道徳や宗教に矛盾したら、それらは譲歩することを拒む正当な根拠をもっている。そうした場合、それらの場合、戦いになるが、双方ともに正当性をもっている。しかし、私自身は、真の哲学は健全な道徳や宗教と戦いを起こすとは考えていない。私の意見では、真の哲学は行為に必要とされる公準と矛盾しないことは確かである。違った風に理解することもあるかもしれないが――私はそれについて疑問をもっているわけではないが――違ったふうに理解することが必然的にそれを否定することになるとは認めることはできない。人は同意していない見解に基づいて行動することもあるし、真に矛盾しているわけでもなく、行動において乖離してしまうわけでもない。多くのことが明らかになったように思える。しかし、他方において、真の哲学は行為の公準を保証し、正当化してくれるかどうかとはまったく別の問題である。私がここで主張したいのは、異なった理解、正当化の失敗が真の矛盾をもたらすわけではないということである。もしある人間がその哲学の部分でもって、宗教的信念が間違っていると確信しているなら、少なくとも、形式的にいって、宗教が哲学に悪い影響を及ぼすと答えることは許される。しかし、なんらそうした保証も、おそらくは逆の保証もないときに、哲学が彼の道徳や宗教的信念と矛盾すると主張する場合は立場が異なる。ここでは間違いなく彼が正しいかもしれないが、もし彼が正しいなら、それは彼自身が、その限りにおいて、よりよく哲学者であるためである。いずれにしろ、彼は問題を実践から理論の領域に移しており、理論が攻撃に耐えることができない限界はそのままにしている。端的に、二つの問題があり、共通のものであるが、もっとも混同される危険があるものである。第一の質問は作業における信念として教義の意味を問い、第二の質問は、その教義の究極的な意味と理論的な保証を尋ねる。第二の問題は一般に宇宙における立場の問題を尋ねるが、第一の問題は、単に私の心情と良心がどうなっているかを尋ねるだけである。


 哲学において、我々は絶対的な満足を求めるべきではない。哲学はせいぜい対象の理解であり、対象が全体として含まれ、所有されるような経験ではない。別の言葉で言えば、我々の本性のある側面についての修練であり享受である。哲学がしばしば宗教化されていることを忘れているわけではない。ときに必要不可欠なものとなり、我々の生の目的とも規則ともなり、世界中に崇拝者が生まれることもある。しかし、同様のことは、芸術でも、おそらくは他の研究でも正しいことを思い起こさねばならない。哲学をもたないものが、実践的な信念も持たないままであれば、それは不幸な世界に違いない。そして、哲学がそうした重荷を背負わされれば、永久にその主要な目的を失うことになろう。*1真の哲学は自らの神格化を正当化することはできない。逆から言えば、形而上学者は自らの運命を嘆くだろう。自分の研究が自らを責め、非実在的な群れのなかで、生から追放されて生きることに不満を漏らすだろう。考えるより存在することで、三度は祝福を受けることができよう。*2しかし、そうした雰囲気では、人間は哲学からは脱落してしまう。真の哲学はそれ自体も含めて、人間の本性のあらゆる側面を受け入れ、正当化しなければならない。他のものと同様、それにも相応の場所があり、偏在も居場所がないことも至上のことではない。思考体系の支配者は、どれだけ遠く我々がそれを見積もったとしても、哲学はそれを受け入れてはくれるが決してつくりだすことはできないある秩序の下部に過ぎない。

 

*1この問題を拡大することは容易であろう。人間が哲学を宗教に変える一つの結果を示すこともできるだろう。この場合、敵対する哲学の相違した意見が、多かれ少なかれ、葛藤する信条の実践的な敵対関係となるだろう。そして、哲学の関心においては、こうした状況は望まれるべきものではない。
*2二十年以上も前に、ふとした雰囲気をとどめておきたくなって、当時のノートの一節を書きとどめていたことがこのことの例となるかもしれない。「血の失せた影はどこにおいても語ることはなく、形而上学の霊は代わりを受け付けない。彼らはその生命を飲み尽くす犠牲者にのみ姿をあらわし、影とともに話し、自分自身が影となるに違いない。」