ケネス・バーク『恒久性と変化』52(翻訳)

第三章 ベンサムの世俗的神秘主義

 

ベンサムの「行動の起源に関する表」

 

 産業革命が最初に花開いたのはイギリスであった――そして、そこで、功利主義の学説が最も明確に定式化された。我々は既に、最大多数の最大幸福という世俗的な原理が、文化的な働きに関して言えば、宗教的な黄金律と近いものであることを見た。実際、次にあげる、チャールズ・ウォレン・エヴァレットの『ジェレミーベンサムの教育』に引用されている、友人のジョージ・ウィルソンからベンサムへの手紙を見れば分かるように、功利性の原理は当初イギリスの民衆には神学的な装いのもと推奨されたのである。


 「ここではまた異なった人たちが改革者であるあなたの分野に侵入しています。カーライルはひとかどの人物であり、大執事であるぺーリー氏が『道徳政治哲学の原理』という本を書き、四折本で、二版を重ね、驚くほどの称讃を得ています。それは完全に功利性に基づくもので、便宜上彼はそれを神の意志と、またそれにつけ加えて神の意志のあらわれと呼んでおります・・・・・・もしかしたら、彼はあなたの序論を読んだとも疑われます。もしあなたがこの問題について出版をなされるようでしたら、正直に額に汗して働いた結果を盗用として責められるのではないかと心配しております。」(1)

 

(1)より遡って超自然主義自然主義との用語上の架橋は、スピノザのdeus sive natura、神あるいは自然という定式に認めることができる。彼のsiveは、現代の精神-身体といった複合に用いられるハイフォンと同じ働きをしている。

 

 ベンサムの言語理論については以前に触れた。ここではより詳細にその幾つかの側面を考えよう。『行動の起源に関する表』でベンサムは、三組の語彙を案出しており、会話の本性について神秘家の懐疑主義に非常に接近している。人々の動機づけとなる快と苦痛の見取り図を描くのに彼は「中立的」と「検閲的」という二種類の用語を使い、後者を更に「称讃的」「非難的」に分けている。例えば、飢えや渇きを食物に対する必要、食物に対する欲求などと言うのは中立的である。社交的な会食、楽しいごちそうを好むと言えば称讃的である。同じ関心を、大食、貪欲、大食らい、飲んべえなどと言えば非難的である。


 あるいは、「関心をもって調べること」は、中立的に言えば好奇心であるし、称讃的には知識、文学、科学への愛情となり、非難ではお節介、出しゃばり、詮索好きとなる。あるいは、「祭壇への関わり」で我々が「動機づけられている」のは、人間の宗教に対する関心(中立)、帰依、聖なるもの、神聖さに対する関心(称讃)、迷信、頑迷、狂信、信心ぶり、偽善(非難)となる。ここでは、ベンサムが人間の行動の「起源」を分類するのに提示している「動機」の三組の語彙に対応した「関心」の十四のカテゴリーについて述べる必要はない。このように三つの語彙を分けた彼の目的は、大多数の勧告が、語り手や作家の偏向に従い、中立的な言葉を避け、称讃的あるいは非難的言葉を選んでいることから生じているに過ぎないことを明らかにすることにある。彼が言うには、そうした検閲的な言葉はすべて論点が真と仮定されている。常に感情的重みが秘かに持ち込まれているので、無批判的な聞き手にあらわにされることなく、道徳的な仮定が事実とされる。ベンサム特有の法律家的文章を引けば、


 「形式はなくとも、仮定の力――対象に働きかけ、読者にも同じような仮定をもって、一般的な効果をあげる――をもち、それによって装えば、いかに間違った前提に立った疑問のある主張といえど、単純に正しい形式によって表現されたものよりも説得力をもつ傾向がある。特にその性質や傾向において熱情的な主張に検閲的な性格が加わると、いわば伝染によって、そこに示された情熱が広まっていく傾向がある。この場合、称讃的あるいは非難的意味合いをもった一般的な意見を探しだし助けを求めることで、支持を取り付け、新たに導入した普通名詞と結びつけ、証明として扱うのである。」


 おそらく、彼の論点は、次の言葉により明確だろう。「こうした検閲的で、熱情的な普通名詞を行動の源泉や、特に快や動機に適用することは、言葉の戦争において少なからぬ弾薬を提供することになる。悪意のある関心や偏見を伴った関心に方向づけられることで、それらは政治家、法律家、神学論争、諷刺家、文芸批評など、あらゆる階級の論争において謬見の性格をもち、欺瞞の道具となる。」


 後に、こうも言っている。「政治的な論争では、どちらか一方の政党だけが従事するような政策はないが、同じ党の人物によってされるときには良い動機があるとされ、対立する政党によって行なわれるときには悪い動機だとされる。――そして、(ほとんどの場合において)何らかの憎しみがあるどんな競争においてもそうなのである。」


 ベンサムは、後にマルクスが支持した人間に対する考え方に反対し警告を発しているように思われる。彼は便宜の問題を議論するときに隠されている道徳的判断を廃棄することをのぞんでいる。誤って使用されている道徳を矛盾によって相殺し、新たな道徳性を希望する代わりに、単なる便宜性において見るべきもののなかに道徳的な色合いがしみ出すのをできる限り防ぐような技術を見いだそうとしている。対立する道徳が行きわたったとしても、それもまた「自分たちの都合によって人を欺いている」に過ぎないと彼は考える。というのも、それは自分たちの考え方にある根本的な謬見を伝えることはできないので、道徳的で論点先取の言葉によって自らの意図を隠し、検閲的な言葉を操って人々に不利益をもたらす扇動家の甘言を野放しにするからである。


 ベンサムの『謬見の書』は憎しみに関する辛抱強い労作である。議会で論者が、特殊な集団に物質的利益をもたらすことを含む実践の尺度を推奨したり非難したりするときに用いる倫理の覆いによって便宜性の問題が曖昧なものとなってしまう仕掛けを包括的に研究したものである。ベンサムは、言語化の性質を分析することによって、判断があらかじめ形成されてしまうようなヒロイスムや義憤の熱情や欺瞞へ公的な便宜性の問題を引き上げてしまう傾向に対して対抗することを希望していた。(ちなみに、ベンサムがもたらした形式は、後に、「修辞に屈すること」なく「事実を冷静に提示し」、「冷静で公平」だという更に一歩進んだ欺瞞によって自分たちの選んだ「事実」を我々にもたらす統計を操る手品師によって、欺瞞的な目的のために採用されるようになったことは記しておいた方がいいだろう。)


 ベンサムは、リベラルな法制定に影響を与えたことで、通常単なる改革家と考えられている。しかしながら、彼の会話の分析は極度に根源的なものであり、ベルグソンによって提案されたある意味神話的な「組織化された悪趣味」と同じくらい根源的である。ベンサムは、会話の本性に、少なくとも、我々が現在言葉に要求しているような言語的理想状態につきものの欠点を探りだした。会話は共に行動する人間によって使用されるという事実がある。それは行動の付属物である――そして、当然のことながら、行動を導き、刺激するような勧告や脅威の要素が含まれている。当然、事物や働きの名前に善と悪の意味合いが秘かに持ち込まれ、名詞には眼に見えぬ形容詞が付き、動詞には眼に見えぬ副詞がつくように、暗黙のうちに道徳的な意味合いをもって使用される傾向がある。非個人的であろうと試みることは、ベンサムが記しているように、通常論点先取の言葉が使用されており、語り手と聞き手が同じ利害を共有している限りにおいて非個人的であるに過ぎない。


 様々な形を取り、行動に必要とされる道徳は、行動を勧めるのにもっとも自然な人間の道具である。検閲的な言葉に暗黙のうちに含まれ、身体的な道具や武器の言語による投影である。道徳は鉄拳である。道徳的義憤によって提起された問題は、手段の選択において完全に戦闘的である。この観点からすると、我々の語彙にある道徳的要素は象徴的な戦いである。複雑な文化的問題を扱うのに我々はジャングルを進む装備をもって臨む。公正という「検閲的用語」をもって、人は許したり懲らしめたりする。ジャングルの法が我々の会話のやり方と切り離せないものであるとき、「啓蒙」の只中においていまだ我々がジャングルにいるのを見いだしても不思議にはあたらない。そして、戦いの性質が会話に深くしみこみ、会話は社会関係に基本的なものであるとき、我々はベンサムの哲学的提案がいかに本質的で根源的であるか理解できる。


 ベンサムが人間の本性について多く問うている箇所はいまのところ気にかける必要はない。ある集団が対立する道徳的意味合いをもった構造に、堂々と別の道徳的意味合いをもって対するマルクスの言う率直な対抗道徳は、たとえ善良さにつけこまれるか危害を受けるかだとしても、人々が行動において備えるべきものであり続けるだろう。我々がここで主として関心をもっているのは、ベンサムによる会話の懐疑的な分析が、通常神秘家に属する概念的相対性の領域に彼を導いたという事実である。彼の方法は用心深く抜け目ないが、彼が我々を神秘的な領域に導いているのかそこから救いだそうとしているのか判別することは困難である。


 いずれにしろ、主題となるのは本質的に神秘主義の問題である。というのも、世俗的な装いにもかかわらず、根底にあるのは「悪の問題」であり、善と悪とが絡み合う困惑するような事態であり、言語的本質についての基礎的な認識であって、もしそれをやり遂げたなら、言語の根底となる性格にうち当たるであろう。ベンサムは、我々の語彙にあるもっとも「公正な」側面、道徳的または検閲的なもののなかに行動を戦闘的あるいは競争的にするような誘因が潜んでいると示すことで会話を分析した。そして、言語的懐疑主義を最大限にしそれを証明することで、人間関係の「狭路」、コミュニケーション媒体そのものをよりよく支配する方法論を完成させようとした。彼の理想が絶対的な完成にほど遠いとしても、おそらく相対的な完成は可能であろう――少なくとも、我々は道徳的な意味合いを互いにつきあわせ、中立化が避けられないと思われる地点までは中立化する意識的かつ弁証法的な訓練を発達させることはできよう。


 ベンサムの批評のもう一つの側面は、我々の思考において隠喩が働く部分への関心である。あらゆる会話にある隠喩的な性質を述べ、ベンサムは、思想家たちに自分たちの概念に潜む隠喩をあらわにするよう促すような考え方を推し進めた。こうした自覚によって、我々は隠喩によって含意されていることを文字通りに受けとる傾向に対して防御できるのだとベンサムは考えていた。例えば、ある「義務」が「人間に課せられたもの」であるという発言は、実際に人間にのしかかる現実の「重荷」、あるいは現実に人間を縛る紐を考えているかのように我々の思考を枠づけする。そこで、我々は人間が義務を「持ち上げたり」「ほどいたり」できるような方途を見いだすことに従事できる。かくして、発言に固有の隠喩にある暗示の力によって、義務が課せられた際の過程が無視されるように誘導される。我々はそれがある種の法的な尺度の結果として、特殊な目的の、特殊な集団の利益の便宜として生じたことを忘れる。しかし、もし我々が計画的に隠喩が我々に与える誤った手掛かりから身を守っていれば、我々は義務を行動、目的、社会的文脈等々によって論じることを余儀なくされるのである。


 しかしながら、表面的に隠喩の誤った誘導に対して身を守ったとしても、より深い次元において隠喩的思考の暗黙の働きを強いている可能性もある。例えば、ベンサムの価値の哲学の全体は、価格に関わる隠喩のなかで枠づけられているように思われる。彼は「道徳的算術」を完成させることを望んでいた。(それ故、検閲を暴力的なまでに行使したカーライルは、ベンサム功利主義を「豚小屋の哲学」と呼んだが、いくら自尊心のある豚といえども、簿記のような味気のないものにかかずらわりはしないことは公平を期すためにも認めておかねばならない。)まさしく隠喩を通じて、我々の遠近法や類推的拡張は形づくられる――隠喩のない世界は目的のない世界であろう。


 ベンサムは、宇宙についての機械論的な理論に伴う究極的な心理学的考察を見いだすことにおいて他のどんな哲学者よりも徹底していたように思われる――おそらくこの徹底が彼をまったく異なった領域との境界にまで導き、伝統的な言語的カテゴリーへのほとんどアナーキーなまでの無関心と、神秘家が棲まうある種の混乱へと近づけることになったのだろう。