ケネス・バーク『恒久性と変化』59(翻訳)

「感傷的誤謬」

 

 おそらく、倫理が内的-外的なものの合併を含むことは、我々が様々な名前で呼ぶ「感傷的誤謬」の入り組んだ働きを追うことで論じるべきだろう。対象が人の目的や性格を与えられているときに、我々はそれをアニミスムと呼ぶ――詩人は、彼らそして我々がときに考えるようにまったく隠喩的にというわけではないが、それを用いるが、一般的に広まっているとはいえない。『直感像』のなかでE・R・ヤネシュは主観的変化が客観的な出来事として解釈される「共振現象」を論じている。「観察している者の腕が引かれると、線は容易にその見かけの長さを変えるだろう。・・・この現象は、直感像がミューラー-ライヤーの錯視によって描かれるときに特に顕著である。腕を引くことによって二ヤードほどイメージを拡大することが可能である。」彼はこうした数多くの実験を記しているが、それによると、異なったタイプの子供では、主体と対象の性質というよりその人間の関心にありかによって、それに応じた異なった「イメージ」を「見る」ことが示されている。


 ヤネシュはまた、自分の研究を「聖人の絵が奇跡を起こし、絵のなかから抜け出て、行動した、等々」といった数百の発言を集めたスペインの大学の調査者の結果と関係づけている。こうした発言は、「技術者や医者などのように科学的な教育を受け、いつもは理にかなった考え方をする者によってなされている」。ヤネシュはこう述べる、「我々は直観像の知覚過程の特異性をスペインの同僚に示した。彼の見たものは、その特異性がスペインでの現象の鍵となるという仮定を強めた。」


 客観的な知覚でそうした変容の起きる、幼児期においては正常な直観像現象を特徴づけるのに、ヤネシュは「愛とは、我々の内的な暗室で人間像を情熱的につくりあげていく能力に他ならない」というフランツ・ウェルフェルの言葉を借りている。ウェルフェルの言葉をより極端でない形でいえば、我々の関心が対象の「知覚」を形づくるということになろう。それによって我々は純粋な「感傷的誤謬」に近づくことになる。我々の外側にある事物に我々自身の雰囲気を見いだす傾向のことである。知的な面においてこれに等しいのは、自分の思考パターンを外部にある出来事の生地に見いだす傾向となろう。感傷的誤謬は明らかに創造的、あるいは倫理的である。ヤネシュはこう書いている。


 「最も厳密な科学においてさえも、生産的な論理的思考は、論理学者の理想が我々に思わせたがっているよりずっと芸術家や子供の精神の型に近い。それは、手にある物に対する情愛のこもった対応、子供や芸術家に見られる対象と主体との統一感にあらわれており、直観像現象はその明らかな表現であるに過ぎない。人間と対象との融合には、その間にある生命のない記号の体系が障害物と感じられる。言語の文法的構造は、具体的な想像力がそれに生気を吹き込まなければ、記号の体系に過ぎない。心理学的調査だけがいかに思考プロセスが生じるのか発見できる。論理は内的な秩序のなかで配列された思考をあらわしており、一方から他方を演繹する。しかし、成功した科学者たちの自伝を調査してみれば、生産的思考が芸術的生産と密接な関係を持たねばならないことがわかる。例えば、H・ポアンカレの自分の仕事についての記述を読んでみるがいい。」等々。


 おそらくこれは、より洗練されたいい方で、黄疸の眼にはすべてが黄色だと言っているのであり、数多くの想定もされず名づけられてもいない心的な黄疸がごく普通に存在し、それによって内的なものが外部に対応するものを見いだす。その過程は様々な言葉で示すことができる。幻覚、共感、感情移入、発見、隠喩、遠近法、関心、偏向、感傷的誤謬、人格化、提喩、心的傾向、精神病。心的、感情的パターンに合った外的等価物を発見することであるから、単に類推的拡張と呼ぶこともできる。しかし、いずれにしろ、それは断定的であり、生産的あるいは創造的であり――それゆえ行動にかかわり、つまり深く倫理的である。「感傷的誤謬」は古代詩人や現代の三文詩人の紛いものめいた奇想に限られるものではない。それは我々の経験の質を形づくるのに永続的に働くものであり、我々の関心を直接反映するような出来事の側面を選択させることもあれば、出来事に我々の関心を反映させる手段を選択するよう我々を訓練することもある。この意味において、あらゆる行動は詩的である。ロックフェラーの経済的事業は、ミルトンの叙事詩がミルトンの象徴的な複製であるのと同じく、まさに彼の個人的性格の象徴的な複製である。どちらの場合も、内的なものと外的なものとが分かちがたく融合している客観的材料を操作することで、それぞれの特殊な関心のパターンを「社会化」している。