ケネス・バーク『恒久性と変化』66(翻訳)

第六章 職業と最優先任務

 

職業概念の拡張

 

 我々の職業とは何だろうか。その数は電話帳に記載された商売や専門職に限られるのだろうか。人は配管工、パン屋、銀行家、医者、作家などにのみ従事するのだろうか。猫背であること、ポープよりも聖書を読むこと、「苦境から逃げだす」経験もまた、ある種の従事ではないだろうか。エリオットは「『文学評伝』の著者は既に廃人であった。しかしながら、『廃人』であることが職業となることもある」と言った。実際、宗教の合理化の最も顕著な特徴の一つは、回復の基礎づくりをすることによって、人間の破滅を社会化する能力にあった。


 ユングやヤネシュといった人たちは、心的タイプの分類の可能性を探った。クレッチマーは体型と性格との相互関係を図式化しようとした。最近の考察では(幾分錬金術占星術の段階にあるが)、内分泌のバランスによって異なったタイプに分けようとしている。こうした研究はすべて、人間の根本的な従事を考察することに深くかかわってはいないだろうか。数週間の間靴のセールスに回ったあと、溺れかけた少女を助けたヴァン・Q氏の真の従事というのは、靴を売ることではなく、溺れかけた少女を助けたことにあった。ボードレールドストエフスキーにはわかっていたことだが(どちらもそれぞれの仕方で、隠遁の乾きを経験していた)、固定観念固執、幻視は呼びかけでもある。単に従事する以上のものであり、最優先任務である。この意味で言うと、趣味は従事である。我々のやむを得ぬ労働が、何らかの理由によって我々の最も深いところにある必要と食い違ったときに、補償として企てられる象徴的な労働である。


 職業と道徳とは完全に相互に絡み合っている。それは、職業が最優先任務の段階に達したときに明らかである。というのは、我々は、女性、仕事、書物など最も価値を置くものを最優先にするからである。なにかに向けて行動するとき、我々はそれが本質的に善であるかのように倫理化する。そして、善を検証することは究極的には、精神的であれ物質的であれ、現在に関わるものであれ未来に関わるものであれ、何らかの形で我々の幸福に関わっているので、それに役立つものを倫理化すると言える。既に指摘したように、役に立つという考えは犠牲に行き着くこともあり得る。


 また、ある種の転位、周縁的な負荷も次のような場合認められる。我々の仮定する善がA氏とミス・Bが一緒にいることだとすると、中立的な要素であっても、善の達成を推し進めたり妨害する限りにおいて、即座に善にもなり悪にもなる。乗り物は騒音と悪臭で他のときには厭わしいものだが、Aを目的地へ運ぶことで確かな恵みにもなりうる。こうした周縁的負荷によって都市の不快感は、それが善に達するための道具であるから大目に見られる。もし食物と安楽と愉快な人との交流が望まれたとして、それが金銭によって手に入り、金銭が陰気で、身体も想像力も使わないような偏った単調な仕事で手に入れることができるなら、そうした仕事を得たと聞く者の眼に希望の光を見ることになるかもしれない。彼はまさしく「仕事を獲得する」。結局のところ、彼はこうした偶然に従って価値を完成させる。それによって、仕事につきものの力点、基準、欲望、観察、表現、抑圧などを発達させる。これが彼の職業的な精神病質であり、道徳的ネットワークであり、単純に図式化することのできない複合体である。それは何気ない言葉づかいひとつにもあらわれるだろう。


 こうした倫理的構造は自ら永続化を目指す傾向がある。街の通りに立っている子供が田舎にいるときのように孤独と空虚さを感じるのは倫理的である――こうしたプルースト的敬虔さは、非常に不愉快な状況にあるときでさえ維持されるに違いない。というのも、経験の文脈はなくなってしまったとしても、そこで生じたトラウマ的パターンは多く保持されているだろうからである。周縁的な負荷が不愉快を望ましいものに変えうる証拠としては、もし動物が餌を与えられる前に苦痛を与えることに慣らされたら、苦痛が涎をもたらすよう条件づけられることを思えばよい。しかしながら、人間が最も耐えがたいような生活状況でさえも善とすることを学ぶのを示すものとしてこの実験を理解しようとする理論家は、苦痛がある限界を超えると、実験のネズミの反応は根本的に変わってしまうことを心に留めておく必要がある。苦痛(涎)を倫理化するどころか、混乱し、人間にあてはめれば、「暴動を起こす」と言えるような振る舞いをすることになる。


 おそらく、古くからある小説が善を目的から手段に移す、我々が周縁的負荷と呼ぶ過程を完璧に示しているだろう。単調な出だしに、面白みのない細部が気長に描き込まれる。こうした出だしそのものは低い力しか持っていない――次第に繰り広げられていく中心的プロットの始まりだという読者の意識からその力を主に引き出している。描写や情報を与えるためのくだり、とりとめのない会話は、決して偉大な詩劇の鋭さに達することはないが、読者の生活がまさしく同じように進むものであり、街へ行くのも何らかの重大な事件が待ち受けているからはなく、靴を買うためのお金を稼ぐ仕事に履いていけるような靴を買うことにあるから、黙って読み進みそれを楽しむことさえ可能になるのである。もしこうした美学的あらわれが精神病質の証拠として受取れるなら(ある種の生活様式に伴うある種の生活方法)、拳銃を撃ち放すことから始まり、一行目から活発で刺激が強く、スキャンダラスで暴力的な次々と事件が飛び出してくるような本には、同じ精神病質の崩壊が見て取れるのだろうか。


 仕事は我々の関心を反映するとともにそれを形づくる。人は医学に興味があるから医学の勉強をするのかもしれない――しかし、一度その領域に入ると、それ自体が生みだすものがあり、すべての生命を「医者の観点から」見るよう促される。あるいは、我々と機械との関係はあまりに密接なものとなったので、経験の非機械的な側面をも機械的な言葉で論じようとすることもある。あるいはより一時的な従事の例をあげてみよう(遠近法の技法によって示唆されるように)。なにかに熱中しているとき、人はその状況だけに心を奪われている。その特定の状況だけに対応し、目の前にいる人間をまったく異なった状況に生活するものとして大いに傷つけることもあるだろう。


 天才の場合、我々は容易に彼の心を占めている要因を認め、ある種の行動への例外的な特性が、彼を永久に通常の人間とは異なった状況に置くことになるのだと理解する(あるいは、別の言葉で言えば、彼の特殊な才能が特殊な動機を与える)。実際、主として人の特殊な才能は、どんな経験がその人間にトラウマ的影響を与えるか決定するに違いない。おそらく、どんな偶然も範疇として、あるいは絶対的にトラウマ的だということはない。犬との出会いは長く続く印象を心に残すかもしれないし、他の人間にとっては大した意味がないかもしれない。つまり、犬に影響を受ける才能をもった者もおれば、影響を受けない才能をもった者もいる。