ケネス・バーク『恒久性と変化』67(翻訳)

弱さと勇敢さの両面価値

 

 我々はまた、「優越」と「劣等」の逆説的な関係についても注目する必要がある。アドラーは人間の動機づけの本質を何らかの「器官劣等」に見ている。この劣等が「劣等感」を与え、それがしっかりと食い込んでいる場合には、その人間の生はそれを補償する野心的な支配をめぐる戦いに捧げられることとなる。しかし、人の劣等性は、主に自ら位置づける達成の種類によっている。地下で呼吸する能力については我々は悲しいことにミミズに劣っているが、その点について器官劣等の感覚を呼び起こされる者はほとんどいない。劣等性が早発性痴呆やパラノイアに関わることを述べる部分で、リヴァースはいつも「劣等性、現実のものであれ想定されたものであれ」、「劣等性、現実のものであれ想像上のものであれ」と限定して使っている。別の言葉で言えば、劣等性とは解釈の問題である。心的な状態において決定的な要因として働く前に、劣等性として感じられなければならない。


 オグデン氏は、音楽の天才、アーウィン・ニレハジを挙げており、彼は七歳のときには始めて聞いた非常に複雑なコードも言い当てることができた。こうした人物の「劣等性」は音楽でなければどこに見いだすことができよう。つまり、若い格闘家の優しい「パンチ」によって彼がヘビー級世界チャンピオンに劣ったものとなるように、彼の音楽的才能は、偉大な音楽家たちより彼を劣ったものにすると予想されるのである。(1)

 

(1)マクドゥーガルの「分裂人格」も同様である。というのも、マクドゥーガルは、我々すべてが分離する心的構造によって特徴づけられていると言っているからである。我々は皆、仕事場では暴君で、家庭では弱々しい男、芸術では主張が強く人との関わりでは控えめな音楽家のように、個々に区分けされた反応をしている。そうした各部分を一つにしようとするとき、こうした分離は厄介なものとなる(仕事場で暴君、家庭では弱い男が突然妻や子供を仕事場に雇うことになった場合、こうした分離は不適切と思われ、困惑し苦しむことになるだろう)。


 それ故、分離でさえ、新たな関心が矛盾する異なった反応を併せ持つことが必要なのでなければ問題とはならない。そうした関心は、外的な状況の変化によってもたらされることもあり得る。あるいは、他のすべての部分と相矛盾することなくある部分について強い欲望を感じる者のように、「才能」から生じることもあり得る。こうした感受性は、暇、失業、単調な仕事がすべてそれに付随する義務で欲求不満を生じさせることから、それらによって更に強いものとなるかもしれない。

 

 

 職業的な力点というの最終的にはつなぎ合わされ、ある種の能力はある種の「関心」を最重要なものとし、そうした関心が外的な状況にそれに匹敵するものをつくりあげるよう促し、今度は外的なものが関心を補強するという具合になる。こうしたことは、人は才能の使い方を学ぶという言葉に要約される。才能の使い方を学ぶことによって、ゲーテは『ファウスト』を書き、エロストラトスは寺院を焼き払い、X氏は自殺を試みる(自殺は彼の特殊な性向であったと考えられる)。


 無数のやり方で自由に劣等者となりうる世界では、人は必然的に選択的にならざるを得ない――そして、その才能が選択を導くことになる。問題は、ある種の優越は我々に報いることがなく、繁栄をもたらさないことで、成功した行為そのものが失敗であることもあり得る。自分の様々な能力が障害となることもありえて、そのなかの最良の能力を放棄したり、より役立つ能力に集中したり、失敗の危険を冒しても辛抱するよう強いられるかもしれない。通常、正常な社会のあり方では、職業には好ましい要素と好ましくない要素との均衡が取れている。ベートーベンのような人物でも、重大な危機に陥ったときには、同じような考え方によって何とか生活を支えた。


 困難は、一般に、自分の才能によってあまりに多くの問題を解決しようとすることから生じる。手段の選択において、解決するべき問題の性質に合わせた選択をする代わりに、自分の特殊な性向が問題の「解決」になるといった具合に問題を述べる傾向がある。例えば、若い拳闘家は自分の拳を倫理化し、多様な人間関係を実際の、あるいは脅かしの顎への一発で解決できるものと単純化することもあろう。まじめな音楽家は、政治的な方法によって解決した方がいい混乱を正すのに無意識のうちにヴァイオリンを手にするかもしれない。逆に、ラディカルな扇動家は、政治に心を奪われた結果、他のどんな行動も逃避だと見なし始める。


 我々の拡張した言葉の使い方による精神病質あるいは職業的適性は、フロイトの「オイディプス・コンプレックス」の概念によって異なった角度から捉えられた。『未開社会における生と抑圧』でブロニスラウ・マリノフスキーは、トロブリアンド諸島の神話をフロイトオイディプス・コンプレックスの一例として分析し、フロイトの説を確証し修正することになった。マリノフスキーが示すところでは、フロイトが扱った父権によって組織化された社会とは対照的に、基本的の母権的であるこれらの人々の間にも同じようなコンプレックスが生じている。しかし、部族の神話、夢、猥褻さ、心的病いなどは異なった核のもとつくりだされている。それらは母権的組織に広がっている権威、近親相姦などの異なった概念のもと変更が加えられている。


 もしマリノフスキーが正しいなら、集団の各個人すべてについて一般的な形で社会的パターンが適用される限り、集団全体におおよその精神病質が予想されるという事実から職業的適性も生じてくる。マリノフスキーの説は、フロイト流の純粋に性的な精神分析マルクス流の純粋に経済的な精神分析との中間にある。


 また別の方向性がエルンスト・クレッチマーのような人物の調査にあらわれていて、その『体型と性格』は、身体的な型とそれに応じた精神的型とを記述し、測定しようとしている。クレッチマーは精神-身体構造の異なった分類を認めることだろう。そうした構造の相異は、最終的には、各人物がそのタイプや分類に応じて取る思考と行動の形があるように、その従事するものが異なることになろう。リヴァースが軍人の患者を調べたところでは、「ヒステリーは兵卒に起りやすく、抑圧神経症は士官に起りやすい」。彼はこの相異を訓練の相異に帰しており、従属は兵卒にヒステリー的な暗示の要素を高め、士官に要求される主導権や権威は恐怖の抑圧を強いることになる。しかし、クレッチマーとともに、身分と思考との事実上の相関関係はより根本的なものであり、いってみれば、「背が低くてずんぐりしたもの」と「背が高く痩せたもの」とでは従事するものが異なるとも言える。


 こうした考え方に従えば、「病気」が従事と最優先任務とを形づくることもあるという考えに容易に導かれうる――そして、『天才の心理学』でクレッチマーは、病気の本質と達成の本質との間に重要な相関関係を認めた。マックス・ノルダウが行った退化についての破壊力のある有名な議論で、ノルダウは病気との関係を示すことで天才の位置を傷つけたが、クレッチマーはむしろ病気への傾向を長所へと逆転した。(ここにおいて我々は、治療という形で人間の「罪の重荷」が「贖罪」の基礎となる教会の姿勢が再発見されているのを認めることになる。)


 特に多大な不確実性に見舞われた時代は、病いが従事されるべきものとして意味深くあらわれるのを予想できる――というのも、他の何ものも疑わしいのであれば、自分の失敗という現実に間違いようのない権威が見いだされることになるからである。憂鬱症は悲劇メカニズムの限定的なあらわれであり、身体的精神的重荷そのものが自らの誓いを守るための修道院の壁となっているといえる。彼の祭壇、生や支えの中心となる要素は自分の病気にある――この病気は苦痛でありかつ創造的であるために(黄疸になった眼と同じく)、有用と有害の二重性を含むことになる。


 まさしくこうした理由から、社会的でありかつ根本的に悲劇的であるトーマス・マンのような作家は、自分の作品の憂鬱症的な気質が決して個人的な症候に限定されるものではなく、人間を完全な形で見るときに視野に入れざるを得ないものであり、経験の注ぎ込む確かな形とともにまさしく本質的なものとして与えられているのだと認めていた。こうした誘因は、思想家が自分の立場を社会化しようとするときに初めにあった形を超越するのであり、そうすることは個人には限定されない象徴化を大いに含むことになる。


 確かに、「気質」に対する崇拝は、病気の「有用性」を唱えるこうした姿勢に今日不評をもたらしている。コミュニストファシストは同様に、異なった理由からではあるが、芸術の「公衆衛生」を命じ、病気を根絶しようとしている。作家としての感性を個人のなかから生じる「予言的な」重荷にではなく、国家の何らかの原理から引き出すべきであることが強く主張されるようになっている。この立場の正当性を論じるのは我々の論点ではない。作家の最優先事項が何であろうと、自分の集団に共通するシンボルを操作することによってのみコミュニケートできることは既に指摘したところである。それ故、個人の健康は集団の精神病質とうまくやっていくことだというのである限り、「健康」を目指す新たな学派には相当の正当性があることになる。しかしながら、病気の特殊な価値を洞察するに、病んだ人間はその重荷によって社会にまで広がる問題に対して感受性を鋭くするという事実がある。そして、わが健康の予言者たちは、革命そのものが社会的な病気であることも思い起こさねばならない。以前に形成され、いまだに教育によって普及され続けている分類法と不調和な新たな分類法へと転換することで国家的、あるいは人種的敬虔の様態を再組織化しようと試みることには必然的に数多くの神経症的な要因が含まれることになる。実際、革命家は、専門的革命家としての職業的精神病質が、改宗させようとする者たちとの関係を複雑なものにするなか、殉教を意図的に求めることになるかもしれない自分の役割と方法の病的な部分を認めれば、よりよく自分自身を理解し、分裂の問題をよりうまく処理することができるだろう。


 こうしたことをすべて考えあわせると、芸術の未来はどのようなものになろうと、過去において人間の「罪」がしばしば作品の基礎にあったことが思い起こされる。同性愛、好戦性、無愛想、病的なまでの「内気さ」、「エキセントリックな」関心といった社会的聖痕は、統合の権威ある基礎を与えるという意味で単なる刺激として働いているのではない。それはまた、人を偉大な敬虔のスタイルに駆り立てる――それは二つの理由による。第一に、関心の切実さ――その「祭壇」――はそれをとりまく同じように荘重なものを探しだすよう導くだろう。第二に、社会的行動におけると同様、文学においてもスタイルは人に取り入る目的で使用されるのであるから、罪の感覚はそれへの応報という姿勢を強めることによって、スタイルの感覚を活気づかせることができる。我々は至るところで闘争、意識、忠実さ、良心の間の切っても切れない関係を認める。そして、我々はまた、敬虔さは体系を形成するものであり、関心に伴う適切な材料をどこまでも探し求めるよう人を駆り立てるものであり、コミュニケーションの目的でこの材料を社会化しようと試みることは最初にあった誘因を遙かに超え出るものなので、罪の社会的かつ建設的な性格を認めることができるのである。


 職業的誘因として聖痕に関わる状況が様々であり得ることは、無際限に想像することができる。マン、ジイド、プルーストジョイスは現在終わりを迎えようとしている文化的運動の顕著な例だと思われる。