ケネス・バーク『恒久性と変化』68(翻訳)

第七章 行動の詩

 

神秘家による闘争の無効化

 

 我々は以前に行動が純粋かつ端的に戦いとしてあらわれる騒然とした階梯について考えた。神秘家はしばしば、行動の戦いとしての側面が完全に無効化されるところに規律を見いだそうとしているかに思われ、その結果戦いにつきものの征服なしに、達成の満足感を享受できる。例えば、「よじ登ること」を大いに尊重している西洋では、神秘的統一に参入する最初の段階は、通常屈服を意図的に真似した祈りの姿勢を取ることにある。前進を強調するような社会では、神秘家は象徴的なへりくだりから営みを始める。東洋では、それに対応する初歩的な段階は、一般的に、規則的な呼吸を旨とする完全な静謐を姿勢としてあらわすことに求められているようである。精神と身体との深い部分での対応に基づいて、こうした外面的な諸条件によって対応する精神が呼び起こされ、有機的な像を結ぶ。


 こうした慎重な技法によって達成される神秘的状態の記述を見ると、その究極的な帰結はある種の「純粋な行動」であると推察される。通常それは「完全な受動性」と語られるが、神秘的経験の強度からしてそうしたいい方は不適切である。シェリントンの神経組織についての考察は、神秘的忘我の際身体が取り得る状態についていくつかの手がかりを与えてくれる。我々の運動は支配、あるいは抑圧の洗練された体系によって統合されていると彼は述べている。例えば蛙は、脳の中枢から発せられる命令に「筋肉の動き」を従属させることで泳ぐ。こうした中枢を取りだし、実験者が刺激を与えると至極簡単に筋肉を働かせることができる。かくして、シェリントンが考えるところによると、脳はある種の絶対的な君主あるいは調整者であり、臣下が(様々な身体的反射)目的基準に応じて行動を制限するよう主張する。もしこの君主が歩くというなら、蛙の伸筋が完全な独立を主張するような反射は許されない。彼は部分的には法律によってそれを抑圧する(反対の神経組織によってその権威を補強する)。かくして、この隠喩に従えば、我々の神経統合は本質的に抑圧的である。


 こうした考えによると、神秘家の受動的な状態は、争いあうあらゆる神経衝動が一度期に呼びだされたかのようなある種の「現実離れした主張」であると思われる。例えば、ある筋肉は神経の刺激によって動かされるので、目的のある運動(実際的行為のような)は何でも他の神経衝動の抑圧を含む。しかし、神経が筋肉の運動を伴うことなしに刺激されうるなら、争いあう神経衝動が同時に働くことも可能である。


 神秘家がいつものように主張する統一の感覚には、刺激と運動とのある種の分離が完成されており、争いあう神経衝動があからさまな筋肉の反応をもたらさないで「光り輝く」ような「純粋行動」をもたらす神経学的条件が少なくとも可能性としては認められる。こうした可能性は、なぜ我々がこうした状態を記述するのに純粋な行動や完全な受動性という言葉を選べるかを説明することだろう。また、なぜそれに伴う達成感が完全かつ非戦闘的であり、宇宙との一体化が、生物が子宮内の「胎児」の時期に経験しているに違いない一体感と同じく完全であるかを説明するだろう。


 しかしながら、こうした神秘的な「啓示」は永久に不活動の状態にある必要はない。歴史が証言するところによれば、神秘家のなかには極端に活動的な人物もおり、自分たちが忘我の内に経験した「理想の都市」を実際に建設するために、あらゆる場所をめぐり異教者と分派を切り分けてまわる者もいる。しかし、こうした神秘的な統一の感覚に基づいた通常の宗教的合理化には一つの顕著な文化的利点があり、それは人にカテゴリーとして威厳を与える。神あるいは宇宙と共同作業をしているという感覚は、それ自体主要な秩序の「達成」であり、争いあう野心を無効化するのに役立つ場合がある。


 しかし、こうした宗教の美徳は、意識的無意識的に操作され、人間を自分の取り分に甘んじさせることにおいて価値があったが、次第に身体的に堪えられなくなるまで取り分を少なくするように悪化していった。こうしてよい仕組が悪い仕組へと変わってしまうことは、現代の金融についても同様である。工業社会に必要とされる生産と配分の高度に複雑な方法は、価格と信用取引という単純化された抽象性に向かった――そして、こうした抽象性は我々の社会的経済的組織全体に書き込まれるようになった。しかし、金融家は個人的な利益のためにそうした根本的な抽象性を操作することを学び、その特別な特権を根絶するには経済構造全体を根こぎにしなければならない結果となった。


 いずれにしろ、外面的な行動は結局のところ何らかの形での戦いにならざるを得ない。そうした行動はもはや調和を保つものではない。共に存在するメロディーが個々の独自性を主張しつつ全体の部分として働く交響曲としての性質を欠いている。通常の経験での行動は努力、競争、征服が含まれており、究極的な結論としては戦争に行き着く。既に引用したベンサムの観察によれば、こうした戦争の要素は明らかな戦いと同じように、検閲的な言葉づかいにもあらわれる。非難の形容は殴るのと同じであり――充分それを使えば行動を引きだすことができる。我々はまた、検閲と詩との関係についてのベンサムの考察も引用した。