ケネス・バーク『恒久性と変化』69(翻訳)

ロレンスへの二重の擁護

 

 先述の議論は、それぞれの互いの関わり合いを示すことで、多くの言葉を引き出すことになろう。行動は好みを含む故に根本的に倫理的である。詩は倫理的である。職業や最優先任務は倫理的である。倫理は我々の手段の選択を形づくる。それは我々の定位の構造を形成し、それらが今度は定位のなかで生まれる個人の知覚を形成する。それ故、それは根本的なところで我々の共同作業的過程に影響を与える。かくして、倫理はコミュニケーションと結びついている(特に、コミュニケーションを単に情報を伝えるだけではなく、コミュニケーションの容器を平均的にするときのように、共感と目的の共有、共同して事に当たるという最も広い意味に取る場合)。例えば、リチャーズ氏が「倫理的な世界構築」についてロレンスを非難するとき、私にはその正当性を認めることができない。というのも、この非難には、倫理的ではないような世界構築が存在することが含まれているからである。しかし、世界構築というのは従事と最優先事をもとにして為されるものである故にすべて倫理的だと思われる。


 『無意識の幻想』を論じて、リチャーズはロレンスの方法について鋭い洞察を示している。彼はこう書く。


 「第一に、身体の常ならぬ場所に感じる強い情動は、『太陽叢が他の人格とともに暗い情念のエネルギーに結びついたかのような感じ』と描きだされる。感情が特定の場所に集中する傾向のある者はこうした感覚に馴染みがあるだろう。次の段階は、『私は自分の感覚を信用しなければならない』となる。第三に、感覚を直観と呼ぶ。そして最後には『私は自分の太陽叢がなんであるかを知っている等々』となる。こうしたことによって我々は、太陽はエネルギーを地上の生命から補充し、天文学者は月について間違ったことをいっているなどという疑いようのない知識に到達する。」


 こう述べられると、ロレンスにとって分が悪いように思われる――私自身もロレンスのような考えの言語化に与しようとは一瞬たりともおもなわない。一つには、ロレンスの主張は、まさしく彼が非難している知識体系によってしばしば歪められている。彼が我々に語る月についての「諸事実」は、天文学者の諸事実に対するそっけない対立であり、悪い天文学でしかない。最終的に月に見いだされるというこの種の「諸事実」は、全学会がロレンスの考え方に従い、彼の発言に広範囲にわたる共同作業のために必要な修正を加えるとすると、間違いなくまったく異なった体系となろう。悪い天文学になる代わりに、現在理解されている意味での天文学ではなくなってしまうだろう。ロレンスの主義全体を発展させるには、『幻想』のたった一つの発言でさえ修正されないで残ることはあるまい。集団による修正の過程によって一般的な姿勢が明らかになった暁には、それらの「諸事実」はロレンスが予想もできなかったような具合に変化しているだろう。


 リチャーズは、ロレンスの「科学」を嫌うのと同じくらいロレンスの詩を好んでいるので、「命題」と「疑似命題」を根本的に区別することによって急場をしのごうとしている。彼は、純粋に詩的な隠喩と考えた場合、ロレンスの発言は受け入れられるものであり、有益でさえあるが、こうした倫理的世界構築は厳密に疑似命題の範疇に止めねばならないと信じている。こうした疑似命題は、苦しい時期に、我々に勇気を与え、厳しい疑いと迷いの後に信じる力を与え、我々に力を取り戻させてくれる、と彼は言う。彼は書く、「多くの分野で、言ってみれば、ガリレオに始まりダーウィニズムで頂点に達し、アインシュタインとエディントンで平衡を失うに至った一般的観念に対する一連の攻撃で巻き起こった戦いがそろそろ鎮められるべきだと考える傾向がある。こうした観点はあまりに楽観的であるように思われる。科学のもっとも危険な部分がようやく始まりだしたところなのである。私が考えているのは精神分析や行動主義、それらに含まれるようなすべての問題である。前世紀の猛攻撃を受けて退却した我々の伝統の防衛戦であるヒンデンブルグ線が近い将来破られるかもしれない。もしそうした事態が起きたら、人間がかつて経験したことのない心的な混沌が予想される。」


 また様々な場所でこう言っている。「我々の姿勢や衝動は自活することを余儀なくされている。それらは生物学的正当性に引き戻され、再び自足するものとなった。衰えることなく続き充分強いものと思われる唯一の衝動は、一般的に粗雑なものであり、うまく発達した個人にとってはもっている価値があるものとは思われない。そうした人々は、暖かさ、食物、戦い、飲みもの、セックスだけでは生きていくことができないのである。」


 こうした問題に出会い、あり得べき混沌に沈着に直面する方法として、彼は詩の数多くの疑似命題を受け入れ、それを純粋に精神的予防として用いることを提案している。「我々はマシュー・アーノルドが予見していたように、詩へと逆戻りするだろう。詩は我々を救う可能性がある。混沌を克服するための申し分のない手段である。しかし、人間にそのための再定位が可能であるかどうか、現在のところ半分の力しか発揮していない詩を混乱から解き放ってすべての力を出させることができるかどうかはまた別の問題であり、このエッセイで扱うには問題が大きすぎる。」


 しかし、どうやって我々は疑似命題を書物にだけ止めておくことができようか。リチャーズ本人が、『文芸批評の原理』のなかで、思考と行動との切り離すことのできない関係を認めていたのではなかったろうか。そこで彼は、姿勢とは行動の下絵であり、詩人は我々の姿勢を変えることができると語っている。(1)更に、虚構は我々の行為に内包されている。頁に印刷された詩の明らかなシンボリズムに限られるものではない。身体の姿勢、身振り、声の調子のシンボリズム、純粋に模倣的なシンボリズムがあり、それは踊りのような形式的な表現様式に見られるだけでなく、雰囲気と外観との精神と身体の自然な相互関係にも見いだされる。例えば、直立した姿は、挑戦、怒り、自信などを伴って見えるだろうし、うなだれた姿は落胆をあらわすなど、心理学者は正常異常を問わず数多くの振る舞いに様々な象徴的行為を認めている。我々はまだ止まるべきではない。生そのものが創造的あるいは表現の過程である限り、目的のもっとも外面的なあらわれでさえもその目的の象徴であるに違いない。例えば、秩序の感覚は、シェイクスピアの芝居でそうであるように、金銭的軍事的な組織化で明確に象徴化される。逆に、この観点からすると、「私はクレオパトラの頭を叩いた」と書くのは、まさしく人を逆なでする疑似命題ということになろう。

 

(1)リチャーズが予見したあり得べき「混沌」とは、我々が「不調和による遠近法」の部分で記した過程が昂じたものであると思われる。というのも、行動パターンの異質性が公言され、思弁的、統計的、哲学的、会計的集団が別々に共通する精神の問題を扱い、数多くの生産(関心)の道徳性が生じるとなると、何らかの明確な主要目的が考察を導き制限しない限り、怪物、グロテスク、諷刺の文化のお膳立てが揃うことになるからである。別の言葉で言えば、自由は目的によって限定されなければならない。さもないと、心的な「混沌」を目指して次々と飛び移っていくためだけに我々は「自由」なのだということになる。

 

 

 我々は知人を友人あるいは敵として扱うごとに「疑似命題」をつくりだす――そうして、自動的に道徳的な立場を主張することで、科学的判断の実験室的な方法をはるかに遅れて立ち去ることになる。明らかに、絶対的な友人もいなければ絶対的な敵もおらず、我々の「敵」は「友人」よりも助けになることがあるし、人の性格というのは我々だけに調整されているわけではない。それ故、ある人間に対する道徳的な姿勢を主張することには、疑似命題が含まれている。生というのは、生きていく過程において、我々の関心にあった諸関係の構造を徐々につくりだしていくという意味において一編の詩である。ロスチャイルドなら言うであろうように、あらゆる行為は「総合的」であり、ドラマの一行一行がそうであるように、それぞれの行為は新たな方法で物事を一緒にすることなのである。我々が会話で行う発言は(そしてそれが生みだす結果は)本質的に「技巧的」である。それ故、美学の領域に見いだされるように、実践的な生産においても同じ象徴的な要因を見いだすことが正当に期待される。配当金で受動的に暮らしているような階級の者も、物事をそのままにしていることによって疑似命題を演じている。ある状況を受け入れねばならないかのように演じているのである。


 かくして、疑似命題の奨励が芸術と認められているものだけに限定されるべき、あるいは限定できる理由を見て取ることは困難である。通常、生、経験、行動と呼ばれているような非公式的な技芸にも拡張しなければならない。それらは我々の好悪、そうした姿勢に含まれる選択や手段のあり方にあらわれるに違いない。通常認められているよりはるかに広い範囲にわたる倫理的な相関性を認めることができる。倫理的な規範がどうやって互いに打ち消しあっているかを観察すれば、ときに論理的と呼ばれる非道徳的な中立性の外観を手に入れることもできる――しかし、結局のところ、こうしたごまかしも道徳的姿勢を亡ぼすことはなく、その典拠をより複雑なものとするだけなのである。実践的な模倣においては、行為と役割を演じること、現実と見せかけとの相異は消し去られる。人間は自分の魂の統率者として、詩を読むことで勇気を引き出すことができる。また、魂の統率者であるかのように、元気に通りを歩くことでそれを補強もできる。あるいは、魂の統率者が別の統率者に対して送るように知人に挨拶することで、雰囲気をより複雑な諸関係に翻訳することもできる。そして、彼ら二人は、二つの魂の統率者が為すように、同じ課題に取り組むこともできるのである。