ケネス・バーク『恒久性と変化』71(翻訳)

結論

 

 全三部を通じて、我々は孤立して考えられることもある多様な文化的あらわれにある切っても切れない関係を示そうとしてきた。通常分離していると考えられているものを連続したものとして扱おうとした。ある定位、あるいは世界観がどのようにして自己永続化する構造となり、自ら測られる尺度をつくりだそうとするか示そうとした。個人や階級の逸脱が規則性を破ろうとするにしても、それは閉じた円を形成しようとする。しかしながら、本質として、我々が示そうとしたのは、その円が基本的に倫理的だということである。もっとも単純なかたちでまとめると、「我々の思考や行為は我々の関心によって影響されている」という考えに含まれる数多くの派生を考えようとしてきたのだと言えよう。


 この目的のために、倫理的、創造的衝動の数多くのあらわれの間にある関係をたどろうとしてきたわけだが、それらを多かれ少なかれ任意なかたちで挙げてみよう。定位、合理化、動機づけ、解釈、言語化、社会化、コミュニケーション、予期、意味、「幻影」、職業的精神病質、訓練された無能力、手段の選択、注意、「逃避」、スタイル、何と何が調和するについての感覚、敬虔、妥当性、所有(諸道具と「避難所」)、慣習、迎合、誘いかけ、「偽善」、儀式、権利、美徳、権力、有用性、類推的拡張、「周縁的負荷」、抽象、論理、「原因」、目的、意志、隠喩、遠近法、「回心」、方法、「裸体主義」、観点、統計、シンボリズム、状況、単純化、先入観、検閲、勤め、共感、「利己-利他の融合」、支えとなる諸手段の倫理化、劣等、「重荷」、強迫観念、「天才」、罪、疑い、象徴的かつ避けられない労働、「正当化」、教育、福音主義、立法、行動、戦闘、参加、究極的状況あるいは動機、倫理的世界構築、「便宜主義的修正」、厄介な抵抗。この複合的な全体を文明と呼ぼう。


 こうした概念を結ぶ線が任意に引けることは明らかである。系列のある点から別の点に飛躍することなく移ることができる。倫理的世界構築、「幻影」、厄介な抵抗、注意、手段選択などといったように、段階をつけることもできる。あるいは、隠喩、単純化、主要目的、福音主義、正当化、敬虔、何と何が調和するかについての感覚、解釈、職業的精神病質、等々でもいい。あるいは、所有(諸道具と「避難所」)、予期、先入観、立法、共感、「利己-利他の融合」、迎合、権利、抽象、統計、言語化、等々でもいい。関係が表面上はより明らかである場合もあるかもしれない――しかし、だからといって現実に近い場所にあるわけではなく、倫理的な全体構造というのはある種親会社と子会社との関係に近いものがあり、「管理職が相互に連携して」システムを形成し、どこからでもすべてに連絡がつくようになっている。


 例えば、ロレンスの「倫理的世界構築」の結果に同意しないとしても、他に可能な定位は存在しないと主張することもある。宇宙はそれぞれの主張に応じた厄介な抵抗をあらわにするであろうことを我々は認める――しかし、こうした抵抗があらわになるにはある観点が必要であり、観点が変れば抵抗の性質も変るとも考えている。しかしながら、我々はそうした曖昧さを主観的なものとは考えていない、というのも、抵抗は実在のものであり、抵抗をあらわにする目的も実在するからである。


 我々の論点から引き出すべき結論は、宇宙や人間と宇宙との関係を論ずる究極的な隠喩は詩的、あるいは劇的なものでなければならないという信念である。数多くの隠喩が可能である。ウナムーノはアリストテレスの政治的存在、ルソーの社会契約の唱道者、マンチェスター学派の経済的人間、リンネのホモ・サピエンス、「あるいはお望みなら、直立哺乳類」という一覧を挙げている。彼はロマン主義哲学者が、ニーチェの戦士としての人間という隠喩で最高潮に達した意志的な人間を強調したように、「血肉を備えた人間」に賛意を表する。他の多くの者は、間違いなく機械の勢いに押されて、人間を機械と考える遠近法を提案している。そして、こうした単純化はある仮定としては役立ち、そこから重要で有益な考察(通常「証明」と呼ばれる)が生じてくるにしても、詩的あるいは劇的人間という隠喩はそれらすべてを含み、またそれらすべてを越えるものだと思われる。


 こうした隠喩を鍵として用い、人間の思考の全歴史を通じて発展してきた動機に関する語彙は既に手にしている。実際、一編の詩や社会的構造や実践的な方法の建築学的性質を示すのに構成という言葉を用いると、それを人間の特殊な行動パターンを記述する様々な比喩(修辞学者が定式化するような)の代わりにすることができる。芸術のように、社会的生活は訴えかけの問題であるので、詩的隠喩は、しばしば有用性に関する単純な検証で計られ、芸術として認められているものにも明らかに存在するが、我々がたまたま芸術とは呼ばない普段の生活にもたしかに存在しているに違いないコミュニケーション、共感、宥和に滅多に言及しない実践的な行動様式を記すに際し価値のあるヒントを与えてくれるだろう。


 例えば、怒りの瞬間突然部屋の家具や友人との関係をめちゃくちゃにするとき、我々は実際に擬音を生きているのではないだろうか。治療の場でフェティシズムや転移として論じられているものは、古い修辞学の本で提喩あるいは部分で全体をあらわすと論じられているのと同じ現象ではないだろうか。「利己-利他の融合」は、詩人と題材との、内的姿勢と外的具体化との一致に観察されるのと同じ密な関係性が実際の生活にあらわれたものではないだろうか。市民社会で至るところに見うけられる迎合や正当化(1)の行為は芸術の動機づけとまったく類似したものではないだろうか。個人と集団との関係は、作家と読者との関係を考えることによって大いに解明されないだろうか。しばしば指摘されることであるが、パーソナリティという言葉は語源的には、俳優によって演じられる役を意味している。最後に、厄介な抵抗という概念に含まれる翻訳の心理学は、人間にその主張は修正によって社会化され、より辛抱強い姿勢が必要だと思い起こさせることで、党派的な分裂をより少なくさせることができよう。

 

(1)神学者たちは、労働による正当化と信仰による正当化という具合に、社会的動機としての正当化の重要性を明らかに認めていた。前者は応報の主要なメカニズムとして象徴的な償いを支えていたと思われる。この技術は、純粋に儀式的なあるいは美的な手順によって「罪」を免除し、実際的な達成によって「自らを正当化する」更なる心理学的誘因から解放することによって、個人的な野心を無効化することに役立ったのだろう。プロテスタントの信仰による正当化は、こうした純粋に儀式的な教化の基礎を疑問視することで個人の自発性を促しているように思われる。別の意味でいうと、それはまさしく労働による正当化と呼ぶべきもので、外に出かけ「生活費を稼ぐ」ことで現実のあるいは想像上の不快さに対する報いを求めることになる。それは明らかに、公言されることもあれば言外に含意されることもある成功による正当化を認める我々の世俗的-科学的-商業的規範へ向けての第一歩である。


 近年ますます力を強めている新たな要素が生じてきている。長い不摂生のあと、苦しみながら身を削ろうとしているかのように生じてきているのは、不安のうちでの順応による正当化である。もし順応の度合いが新たな競争の基礎となるなら、できる限り多くの対抗原理を提示することは批評家の問題であろう。

 

 

 人間の目的と選択のパターンが修辞学、「訴えかけの技芸」の用語によっていかにうまく特徴づけられるかここで考察することはしない。完全に体系化された「詩的心理学」は、この本でも、市民過程の見取り図を描くに際して多くのヒントを鏤めたつもりではあるが、また別の著作の主題となろう。我々がここで強調したいと思っているのは、詩的隠喩が偶然が織りなす世界を判断するのに計り知れぬほど貴重な遠近法を与えてくれるという事実である。それは、我々の折々の義務の多くは三文詩人の詩だという可能性を即座に示唆することになる。そして、詩は本質的に倫理的であるので、詩的隠喩は「美しい」生を「よき」生と定義したギリシャのように、倫理と美学とを同一視することは明らかである。


 隠喩はまた、競争的な側面よりも参加する側面を強調し、たまたま我々の経済状況が競争的な姿勢を過剰評価するよう強いているのに対し、即座に反対の根拠を示すことになる。そして、超越的な啓示に対する信仰が失われた世界のなかで、詩的隠喩は、世俗的な性質をもち、生物学的な主張である「啓示」を参照にして出発することを可能にする。類推的拡張によって隠喩を投影することで、全宇宙が力強い劇が進行しているかのように、生命を再び取り戻すのを見いだすことになる。そして、この劇が本質的に悲劇だという恐れに駆られるにしても、詩的な隠喩は、完全な悲劇には「カタルシス」が存在することを思い起こさせてくれ、それ故我々はカタルシスがどんな形になるかを探ることで元気づけられることにもなろう。


 近年の心理学学派を振り返ってみると、二つの主要な特徴が認められる。一方の学派は、正常な振る舞いを異常な振る舞いとの関係で説明する。動物や子供を使った様々な実験を行なうもう一方の学派は、正常な振る舞いを学習と関連づけて説明する。前者に典型的な説明は、特徴が最も顕著にあらわれる極度の心的混乱にある人間を観察し、同じような過程の存在を日常のなかに求める。後者に典型的な説明は、迷路に動物を置き、様々な快や不快の刺激を与え、実験者が設定した問題の解決や失敗のあり方に注目することで、同じような過程を正常な人間の生に求めようとする。人間の調整における社会的な性質を必然的に強調するコミュニケーションの研究は、これらの方法を結びつけ、狂気としての人間と新たな解決法の発明者としての人間を考えるべきである――しかし、こうした二つの枠組みは、より大きな枠組みであるコミュニケーションするものとしての人間の下位区分となろう。


 国家に根本的な変化が存在するとき、そうした変化が向うべき方向を示し導くのに、詩的な隠喩以上に最適なものがあるだろうか。特に不測の事態がひどく、多くの人間が努力を尊重できなくなり、更に多くの人間が努力を費やすことさえできないようなときには、詩的隠喩は必要な警告を我々に与える。例えば、T・S・エリオットのような遠近法をもつ批評家は、文化的な同質性を強調するあまり、人種的少数派はこうした同質性を損なう限りにおいて抑圧すべきだというような誤った結論に向うこともあり得る。だが、彼自身は正当に詩的行為を融合と特徴づけている。諸目的の統一は常に異質な要素を触媒として働くということを彼は完全に見過ごしているように思われる。詩を単独で探求することで更に遠くまで行けば、「批判的な理想」というのは詩を不審の眼で見なければならないと結論づけることもあるかもしれない。同じような正当性をもって、詩の方法は厳格に印刷された頁に限定されるべきだと結論することもできる。エリオットの発言から判断すると、第二の結論の方が好ましいと思われる。というのも、彼は言葉の上では単なる伝統主義に警告を発しているにもかかわらず、それ以外の勧告というのはその意味合いにおいて純然たる伝統主義だからである。新鮮な目的の統一による融合の力を通じて新たなものを確立するよりは、過去の同質性を保持しようとすることは本質的に伝統主義である。彼の立場は本質的に非詩的であり、自分自身の方法を理念的には否定することになる。


 人間の制度において、生の共同作業が一度堅固に確立されると、生の新たな敬虔さを形成するには詩的隠喩が最上の導きであろうと(実際には唯一考えられる導きである)私は信じている。スタイルの文化的価値を大いに強調することによって、人に好印象を与えることや誘導の技法をもとにした世界が建設されるようになり、それは必然的に感情の自由で満足のいく働きになる。実際、私はスタイルの喪失が、増加する暴力によって西洋世界を悩ませている競争を心理学的な面で補強しているのだとさえ言いたいのである。


 というのも、スタイルとは「正しいことを行なう」ための洗練された規定と禁止だからである――そして、ある個人が瞬間的にそうした「会衆的な」反応によって自分を「正当化」できないなら、彼は「隔離的な」行為や態度によって正当化を行なうよう強く促されることになる。成功は征服と同一になる――しかしスタイルと儀式によって特徴づけられている時代には、「正しく」あるための数多くの非競争的なやり方に黙従することによって我々は「成功する」。現在、こうした人の歓心を得るやり方は最小限に切り詰められている。そして、スタイルの残存物は、階級的な特権として純粋に「差別」的なものとなり、結束よりは優越を示す手段となっている。


 加えて、多くの人にとって、我々の経済体制の厳格さのなかで、スタイルやそれに含まれるものを開拓することは自殺に等しいだろう。結果として、何らかの特殊な規律に充分人間的に適応するのに必要とされる象徴的行為と初歩的な段階は必然的に無視されることになる――この欠如は、様々な努力に伴う空虚さの感覚を説明するように思われる。(例えば、教育にはなんの哲学も儀式もなく、技術だけがある。専門職の不快感は象徴作用を完成させることによって合理化されない。単に「我慢」しなければならない。)


 我々の経験に対する反応は、最も原始的な社会にさえない厳格な功利性の概念によってあまりに強く限定され切り詰められている。詩的あるいは人文的な意味においては、功利性とは、工業経済学者がその語にもたせる限定よりずっと広範囲にわたる有効範囲をもっている。それは現在の制度によって保持され促進されている支配には占める場所のない自己干渉の要素を含んでいる。そこには我々の戦闘的な社会ではおそらく単なる臆病さと言われるある種の放棄や断念が含まれている。それは最も真なる意味での「行動」であるが、戦闘-行動-共同作業という連続体のなかで、戦いよりは参加の方に向うのである。(1)

 

(1)スタイルとは常に義務と向き合うことであり、違反のないあり方、「正しい」ことを繰りかえし行なうことである。それは付帯的なものによって我々の行動をかたどるが、こうした付帯的なものははるかコミュニケーションにまで達している。というのも、スタイル(慣習)は、繊細な作法や姿勢を通じて、なにとなにを行なうかについての複雑な枠組みだからである。社会関係でのその豊富な実践は、成功であるために競争で成功しうる。我々は習慣的な行動を強制的なものだと考えがちである――だが、諸価値は今日、慣習が残っている限りにおいて存在する。殺人を禁じる法があるから殺人を控えるというのは人間的ではない――そうした基盤においては満足のいく社会関係が築けないのである。友愛は礼儀作法を守ることで果されはしない――友人が互いに感じるような義務を命じるスタイルによって支えられている。そうした義務を規範化することはそれを廃止するのと同じことであろう。仲間を殺すことを控えるという正常な傾向は、疑問の余地のない禁忌、なにとなにが為されるべきかという逸脱することのない感覚を反映している限りにおいて「合理的」である。そして、そうした習慣的な価値に対する服従は臆病さではなく、敬虔さである。


 古い敬虔の体系がどうして部分的に廃棄されざるを得なかったかについては多くの理由を推測してきた。採用していた物質的条件に重要な変化があれば無秩序に陥るのには十分である。また、スタイルは固有の劣化の形式をとりうる。階級的特権の甚だしい社会では、スタイルそのものが競争の道具となり、特権的集団がスタイルによって特権を喧伝し、それを永続化することも可能だからである。そのとき、スタイルは和解的なものではなくなる。自慢げなものとなる。人の歓心を得るものではなく、皇帝の記章のように恐怖を注ぎ込む仕掛けとなる。(そうした恐怖は一般的に尊敬と呼ばれる。)スタイルがこうした差別的な働きをするに従い、それに対応した誘いかけから支配に向けた社会的運動が起こる。会衆的な性質が少なくなり、隔離的な性質が強調される。例えば、スタイルの封建的な誇示は、精神的な面で、物質的な面での不均衡を証拠立てていよう。


 「一時的流行」というのは、一致してことを行なう機会が低いときに、その必要を表現したものである。それはコミュニケーションの要素が強いから、直感的には健全なものだが、あまりに流動的で表面的なために、敬虔の働きを十分に果すとはいえない。それは豊富で当てにならない立法によって慣習の不完全さを繕おうとする試みから生れる文化的な結果である。立法は単に慣習を規範化する際に最も健全である。しかし、慣習が(あれこれの理由により)不適切になると、順序を逆にし、法の決定によって慣習を形づくろうとする。この逆の過程は、共同体全体の必要に応じることなく、自分たち特定の集団だけの特権を維持するため教育や政府を操作する集団の支配に立法の仕掛けが置かれるときに特に危険なものとなるだろう。こうしたとき、立法は二重に不吉なものとなる。というのも、慣習による承認を「精算する」ばかりでなく、集団全体の要求には反する新たな承認を確立しようとするからである。かくして、それはスタイルが全体として再統合化されるような融合へ向けた目標を阻むことになる。

 

 

 詩的隠喩の究極的目標は、行動の参加的側面が最大限に表現されるような社会であろう。コミュニケーションを大いに強調することによって、自然主義的な合理化も超自然的な合理化も、現代の都市化された生活に必要と思われるだけの注意を払わない市民的な性質に重要性を置くことになろう。それにしても我々は、行動の共同的な側面が最小限にまで切り詰められている経済的パターンに従って生きるよう余儀なくされているのである。

 

 

 最後に、恒久性と歴史との関係について少々述べておこう。倫理は、社会的生物学的有機体としての人間の一般的性質を考慮することを目的としているため、究極的には生成の哲学とは異なる存在の哲学を含むことになろう。この限りにおいて、「よき生」の枠組みは、消化や代謝に関する考察がそうであるように非歴史的になる傾向がある。


 しかし読者には、既に示したように、存在の哲学は受動性、黙従の哲学と同じ意味に取られるべきではないということを思い返して貰いたい。「断念」には様々な形がある。戦うために「断念」することもあり得る――そして、戦闘-行動-共同作業という連続は、心のなかで活動的な断念の概念として明確に枠づけられることになる。我々の非歴史的な立場は、決してその重要性を考慮することに失敗した歴史的結構に屈することではない。反対に、多くの点において、歴史的な観点こそが、人が見いだし適応しなければならない一時的条件の基礎となり、屈服へと導くものだと我々は信じている(例えば、歴史の趨勢がその方向を指し示しているが故に、より以上の機械化を受け入れるよう自ら言い聞かす場合のように)。


 ここで考えているような存在の哲学に与することで、ある種の歴史的に条件づけられた制度は適切な社会的コミュニケーション的諸関係の確立、つまり恒久的な生物学的規範と向き合い干渉し合っていると考えることができる。更に、ある種の集団や階級の人間は、社会的に危険な制度を保留しておく責任があると考えられる。ある観点が必要とされ、それに応じた物質的環境、適切に具体化された国家建設が主張されるにしても、存在の哲学は、その力を反社会的な働きをする制度に費やす人間や階級に対していつでも戦いを挑むことができるのである。


 そうした闘争において、自然な行動のあり方というのは、教育、プロパガンダ、説得であろう。そして、いかなる形でも暴力を手段として選択するよう煽動することは、新たな意味を基礎づけようと平和に仕事をしている者に対する暴力しか生じないに違いない――そうした状態は、翻訳と誘いかけをできうる限り駆使することによって避けようとされるだろう。他者の敬虔さは自分と異なってはいるが同じように真実で深いもので、そうした抵抗力を考慮しそれに従って自分の発言を修正することで自分の立場を推奨していくことになろう。


 こうした道化芝居において、我々は短気を諫め不調和な遠近法を採用する方法を見いだすことができる。我々は都市においては、まさしく、人工の制度を見積もる抜け目のなさをもって成長する――しかし、修辞と交渉との小さな集中点を超えたところには、永久に解けることのない謎、存在と無とが等しく考慮不能な途方もない事実が存在する。我々の考察は遊びから、崇敬を通り、身を震わせるような冷たい形而上学的不安に到るあらゆる性質を経巡ることになろう――というのも、永遠の謎は、大都会の灯のきらめきに、無限の星のなかに、心の奥底に存在するからである。そして、この人間と人間以外との常に揺れ動いている不均衡には、純粋に人間のものとして誇れるものもなければ、人間が深淵の淵で、神経質な多弁を弄しながら、雑多なものをかき集めることによって文化をつくりあげていることを忘れさせるようなものもないのである。