ケネス・バーク『恒久性と変化』73(翻訳)

II.位階的気後れ

 

 神秘が階級間の疎隔の表向きの表現であるなら、裏向きの表現は罪である。(その中間の気後れを考えることによって容易にこの事実を認めることができる。ある領域の専門家は別の領域の専門家に対して「罪がある」わけではない。気後れを感じる。どれだけ質問をすればいいか、どこまで権威に反対していいか、どこまで丁寧にするべきか正確なところがわからない。実際、十九世紀のロシアの小説は、階級の疎隔の原理が一度絶対的なものとなると、同じ階級の者同士でさえ、位階全体に広まっている気後れをもって互いに対することの例を十分に与えてくれる。)


 位階的気後れの最も完璧な反映は、原罪についての神学的教義にある。「原罪」は一カテゴリーとしての罪であり、その「罪」とは何らかの個人的な違反の帰結ではなく、部族、一族として受け継がれるものである。(キリスト教の言葉で言えば、アトレウス家の一員であること自体が悲劇的な供犠であり、オレステスは母親を殺す「以前に」呪いを受けているも同様なのである。)「部族的には」、人は身分を受け継ぐ。「原罪」の概念がその形式的な一般化の様態において、社会的階級の疎隔とは関係がないように思われるにしても、その観念が活発に発達していったときの「状況の文脈」によればそうした意味を考えるべきなのは確かであり、少なくともなぜそうであるかを示せるような事例においてはそうであろう。


 (先を続ける前に、不必要な重荷を背負い込まないためにも、一点を明確にするべきだろう。「原罪」を「位階的な精神病質」と同一視することで、我々は「私的所有」の「社会化」がその難点を解決すると言おうとしているわけではない。我々はピラミッド状からくる魔術が社会的関係においては不可避なものであることを当然とみなしており、諸個人は正当にであるにせよ不当であるにせよ、自分の役目を担わされている。私的所有はその名と性質が変わることも可能である。確かに、変更されることで社会的状況により適合するようになるかもしれない。しかし、どんな名前になり、それが「無所有」となったとしても、ある種の期待値、権利、物質的報酬、名誉などが他の人物とは異なるこれこれの人物には普通のことであり、社会でそのように認められている者には当然な責任や義務を実行するなら、それは働きとして存在しているに違いない。この意味において、無所有というスローガンはある特定の社会状況において修辞的に説得力のあるものであり得る。しかし、所有をいたるところに割り当てるような組織的手段を後ろ盾にしたときにのみ効果的なものとなるだろう。)


 次に、叙述の形式について論じているコールリッジの一節(「最初の踊り場、エッセイⅣ『友人』所収)を引用しよう。

 

 「幼児期の印象のなかで、いまでもはっきりと覚えているのは大きなお屋敷として恐ろしげな思いをもっていた隣人の准男爵の邸宅にはじめて入ったときのことで、その外観は長い間アラビアン・ナイトを耽読して培われた感情や空想を伴った子供じみた想像力と結びついていたのだった。なににもまして私の心を打ったのは、広々として踊り場を挟んで均整の取れた巨大な階段であって、最初の踊り場は大きな目立つ植物で飾られており、次には豊かな青と琥珀あるいはオレンジ色の側窓をもつ堂々とした窓からは広々として眺望が見渡せた。最後の最も高い踊り場からは、大広間から続く大理石の螺旋に続く道の全体が見て取れた。そこから見ると、吹き上がっているようで、地面は一時的な中継地のようだった。これは『友人』の踊り場であり、主要な叙述の間に挟まれた小さなエッセイ群の意味を理解してくれる私の読者であれば、こうした外面的な感覚を知的な類似物に翻訳することになんの困難も覚えないだろう。」

 

 コールリッジはここで叙述の各段階について論じている。実際のありようはその時々でよりとりとめがないので、ある種の理想化がされている。しかし、我々の目的にとって明記すべき重要なことは、いかに彼が自分の弁証法的な方法を、それ自体明らかに社会的区別の原理と同一化される階段のイメージと同一視しているかということにある。コールリッジに特徴的なプラトン弁証法のような純粋に形式的な枠組みであれば、実用的操作上ではそうした精神は無視されうるし、気づかれさえしないかもしれないが、それを用いる人物の全体的行動のなかでは社会的なものと融合しうることが見て取れる。


 更なる関わり合いをたどることもできる。例えば、同じ動機づけにアラビアン・ナイトを積極的に含めるコールリッジのやり方を考えてみよう(子どもの頃その本がいかに彼を魅了し、それを見ただけで「漠たる不安と強い欲望の入り混じった感覚」が喚起され、「朝の光がそこに達し、全体を覆うに至るまでは」触れるのにも躊躇したという脚注がそれを補強する)。こうした物語の強い位階的な魔術が、幼児期の驚異の感覚に訴えかけることで、二次的に階段の魔術にもつけ加わることになったかが見て取れる。コールリッジ自身『テーブル・トーク』で、彼の最も有名な詩『老水夫』とアラビアン・ナイトとの関わりを語っているので、彼の詩の「超自然」な形象の背後にある社会的動機についての推論を固めることもできるだろう。しかし我々はむしろ、同じ動機づけに「天界の」モチーフがいかに力を与えることができるかを別な引用で示すことで満足しよう。『アニマ・ポエタエ』(コールリッジのノートからの抜粋)からの一節で、我々が既に引用した一節と編者(アーネスト・ハートレイ・コールリッジ)によっても関連づけられている。


 「地上から天界へといたる人間知性の進歩はヤコブの梯子のようなものではなく、五箇所あるいはそれ以上の踊り場をもつ幾何学的な階段である。そこに立てば下にあるものを明瞭に見渡せ、その全てを数え上げることができ、もっと上に登れば我々の眼に天蓋が見通せるものとなるだろう。我々はそれを見ていないが、最高点があることを信じているのである。」