ケネス・バーク『恒久性と変化』74(翻訳)

Ⅲ.位階、官僚制、秩序

 

 「位階的動機」と言うことで、我々が「名声」などの同義語を提示しているだけだと考えられるかもしれない。競争を含む語であれば何でも目的に役立つので、ある意味ではそうも言える。しかし、我々の関心事は用語の問題ではないし、類義語の問題でもない。用語をめぐる議論が真に重要な問題を隠してしまうことが多すぎる。(ある用語体系のなかでは)一つの用語は他の用語によって変更を蒙っている。


 以前の著作(『歴史への姿勢』)で、政治的動物としての人間について語ったとき、我々は「官僚制」という言葉を用いた。より正確にいうと「官僚化」である。対立する言葉として「想像的なもの」があった。つまり、想像力のなかで漠然と考えられる計画や目的のことである。そして、組織的な仕組みを形成し、使用することによって、こうした「想像的な」目的は実行され、様々な程度で成功し、様々な程度で公的な黙認を得る。


 概念は関連性の度合いを持っている。また形而上学をも持っている。そのパターンは本質的に観念論的であることが見て取れる。我々が思い浮かべているのは、神の化身であり、神が地上にもたらした世界というロイスによる観念論の定式である。要するに、観念論の遠近法では、純粋な精神、観念、理想、目的が存在する。この観念は時間的秩序(「自然」と「歴史」の)のなかで和解あるいは物質化(化身、具体化)に達する。この意味において、歴史学とは地上に降り立ち、肉体をもって現れる神のヴィジョンとなるであろう。(我々はロイスを敷衍している。)この観点から見ると、「想像的なものの官僚化」という我々の定式は、それ自体神学的教義の部分的世俗化である観念論的形而上学を更に世俗化したものであった。


 観念論も、二次的な考察によってプラグマティズムの方向に修正することが可能である。例えば、観念論が本来的な目的とそれに対応する物理的人間的な部分での具体化との関係を普遍化し、宇宙論的にするものだと言えるなら、プラグマティズムは理念を具体化する材料や方法の特殊な選択が、いかに理想の精神とは矛盾する条件を生じさせるかを示すものだと言えよう。(我々はそうした成り行きを「意図せざる副産物」と呼ぶ。)そして、こうした見通すことのできない諸条件から、目的を再定義する必要が生じる。それ故、観念論が目的から手段へと移る(目的から媒体作用へ)媒介の段階を強調するとすると、プラグマティズムはむしろ媒介作用から目的への段階を強要する(利用できる手段の性質から目的を引き出す場合のように)。


 そして、どちらの作業にも権威を受容したり拒絶したりする、あるいはその他何らかの形で権威を関係をもつことが必然的に含まれるので、我々は権威のシンボルと関係をもつ用語法を作り上げた。


 官僚制と位階とは明らかに互いを含んでいる。同じ理由から、論理的に言って、官僚制(「組織化」の意味における)なしに位階をもつことはできない。しかし、思うに、位階なしに官僚制をもつことはできるかもしれない。つまり、絶対的な平等のなかでの組織化された共同社業という観念は何ら論理的矛盾を含んでいないように思われる。しかし、実践においては、少なくとも権威が委ねられていなければ、我々の知る組織的な行動は不可能である。そうした権威は様々な仕方で修正されうる。しかし、どんな範囲で実行される作業であろうと、完全に権威を廃絶することは我々の知識や想像力を越えている。


 仕事の組織化において権威の梯子に与えられる実際的な必要は、(芸術や科学の実験室における)諸段階という概念に合っている。手順が「正当な」順序で進まない限り、その有効性は損なわれる。そして、その仕事が社会的な意味で権威があるのであれ、自然的な意味で成功しているというのであれ、そこには必然的に単に規則的ではない定式化された「秩序」が存在する(第一、第二、第三法規等々――教皇や王による絶対的な法規から、自由な仕事において特定の時期に局限された純粋にプラグマティックな慣習に至るまで)。