ケネス・バーク『恒久性と変化』78(翻訳)

Ⅶ.動機としての「完成」

 

 「罪の贖い」といった概念を考えるとき、ベンサムなら「原型的イメージ」とでも呼んだであろうもの、賠償によって債務を皆済することが認められる。次に、こうした考えに一般的に沿うと、社会の一般的な生活手段が純粋に「精神的な」概念や観念の形成といかに類似したものを提供するかが見て取れよう。この点からすると、罪と贖いという概念がいかに、物質的財産の交換に関わる現在あるいは過去の社会慣習を反映しているか充分明らかだと考えられよう。


 こうした考察の生産性やある種の目的に対する適切性を否定するわけではないが、我々は読者に、いま行われている「劇学的」な考え方では、イメージが借りてこられる「物質的」領域とそれが「虚構」として適用される「精神的な」領域との間に重要な中間的段階をつけ加えることを思い起こしてもらおう。この中間段階には、アナロジーが借りてこられる概念や関係をある種「完璧化する」ことあるいは「絶対化する」ことが含まれる。


 賠償される負債という考えには、ある種の「論理的結末」あるいは「究極的な還元」が「含まれている」。即ち、商行為という観念には、いわば疑問が含まれている、「商業において最も完璧な行為とは、『最上級の』商行為、『商行為中の商行為』とは何であろうか」と。何らかの行為がシンボルの領域に持ち込まれるや否や、こうしたつきつめた考察が響き渡ることになる。シンボルの論理は普遍的な定義という完全性へ向けて進む。(論理的には定義の要求としてあらわれるこうした純粋に特化されたシンボリズムの衝動は、道徳的政治的には「正義」の問題に関わる精神の自然な考察にあらわれている。)


 このとき、個々の行為(「断片的な」行為)は単なる「これこれのアナロジーに従ったもの」としてではなく、それに応じた完全性のなかで考えられる。完璧な存在としての神学的な神の概念は、おそらくシンボリズムに含まれる「究極性の論理」の究極的な定式化であろう。


 そこで、見て触れるものをそれに対応する「虚構」に翻訳することで得た「断片的な」語に出くわしたとき、我々はアナロジーのそれらしい「自然さ」だけに説得力を求めるべきではない(神が、シェイクスピアシャイロックのように、契約の不履行に対して報復を求めるというような擬人論的な考えのように)。むしろ、「究極的な」動機づけが偶然性の世界にさえ含まれることになる道筋を明らかにしてみるべきである。


 例えば、諸事物における「精神」を「社会神秘論的に」探ろうとするとき、我々は単純な対応から始めることができる。大学のキャンパスにある刈り揃えられた芝生は、自然にある単なる芝生とは異なり、記章としての社会的役割をもっており、ある種の道徳的学問的義務からの解放に結びついた約束や特質をもつある秩序をあらわしている。しかし、結局は位階的秩序の原理ということになるこうした直接的な対応はすべて、原理としての性質によって、「完璧」であり「究極的」である(それゆえ、厳密に言えば「神」と同一視されるものであり、おそらくは神性に関して我々の観念が不都合なためではなく、社会的区別に関する我々の観念が進んでいるために、社会的相違、社会的区別は神性と精妙に絡み合うことが可能である)。


 世俗的な敵の「完成」は最も明瞭に観察できる例であり、そこでは中間的な絶対化の段階が含まれている。現代の広範囲に渡る複雑な世界では、我々の不幸に対する「完璧な」物質的犠牲を見いだすことは困難であろう。しかし、「完璧な」犠牲の原理には犠牲行為の観念そのものが含まれており、人間は不快に対して「完璧な」観点をもつという「自然で」無意識の欲望を持っているものであるから、犠牲に関して、その献げ物が完全なものであれば、それに応じて治癒も完全なものとなると言いたがるものである。かくして、敵の「断片的な」性質が絶対者の属性を取ることになる。


 位階的精神病質(罪、驚異、冒険、カタルシス、犠牲行為などとともに社会秩序と絡み合っている)は社会秩序から自然に生じてくるものであり、自由な社会は位階的な魔術の建設が最も困難であるような種類の考え方を、その世俗的な教育方法において強調するべきであるように思える。こうした魔術を「有効に」調整するには独裁制が最適である。だが、位階はそれを疑問視するものからさえ生じるのは明らかである。例えば、原則として、科学はこうした「神秘」に対立している。だがまた、必然的に、至るところにある科学的テクノロジー的位階においては地位と職務について同じカテゴリーの価値が存在している。


 実際、位階の動機に対する正しい教育的取り組みとは、現在のように、「神秘化」と「暴露」、ジャーナリスティックな「宣伝」とそれと補償的な「性格毀損」との間を揺れ動くのではなく、社会秩序に不可欠な社会形式の認知と受容を最もよく適用した熟考と寛容とを目指すべきであろう。


 短期的には、「神秘化」は社会的凝集を促すのに最適な方法のように思われる。しかし、それは特殊で災厄をもたらす利害を守るために歴史においてしばしば誤って用いられているので、長期的にはその限界を明瞭に見定めることである。同様に、完全にすべてが「暴露」された世界においては、いかなる社会的凝集も可能ではないだろう。(しかしながら、通常そこには詐術がある。「暴露家」は、一方において破壊の行為を見せつけ、他方においてひそかに建設を行っているので、手品同様自分のすることの結果を正確に予見することができる。)


 極端から極端への動揺は、社会が社会的秩序においてある役割を演じる個々の人物を考えるときに通常のことであろう(そして、根本的な転倒の時期には、カテゴリー的な役割そのものがそうした動揺を被る)。しかし、教育体系がこの目的に向けて計画されれば、この動揺は方法を介入させることによって、理性的に安定化させられるのではないだろうか。