ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 2

 端的に言って、すべての思考は、暗黙のうちだろうと明らかにされようと、ある種の検証を受け入れいることを同意することにある。別の言葉で言えば、ある種の満足を追求することにあり、そうした追求に関与しないかぎりは、議論は誰にも訴えかけることはない。哲学と同様に、生のあらゆるところで同じ原理が働いている。単なる楽しみや好みであろうと、道徳的宗教的信念の優先順位だろうと、美的感覚や趣味であろうと、そうした相違のなかに我々は一点同一のものを見いだす。あなたに与えられるものがくつろぎと満足を提示するかぎり、それがなんだろうと、善である。外部からそれに反論するものはなにもない。あなたがどこにいようと、そこにとどまっているかぎり、自分の存在とともに満足し、暴力*からも離れて、安全でいられる。境界線がなければ、野営地であっても敵は侵入してこないだろう。人間は理性から恥じ入ることもないし、感情から合理的に論じることができないのもよく知られている。

 

*最終的に単なる外的な力というものが存在するのかという疑問にここで関わるつもりはない。しかし、個人に関するかぎり、実際的な面からいって、それは明らかに存在する。

 

 しかし、他方において、どこにも完全な善は存在しないことは古くからの経験である。善は、おそらく我々が最初に配置しようとしたところには実際にはない。別の言葉で言えば、生のなかに、それのみをそれだけとって、完全に満足のいくものは存在しない。我々の生にはいくつかの主要な側面があり、それぞれの側面のなかでも、ある点はよりよくまたそれ以上のことがある。そして、我々が最終的に見いだすのは、どの側面もそれ自体で善であるとか、混じりけのない善であることはあり得ないということである。*生のすべてのものは不完全で、自らを超えた絶対的な充足を求めている。かくして、生においては、すべてのものが従属的で、生に従属すると最終的にはいえるだろう。

 

*善だと主張されるものについては我々は次のような問題を投げかけることができる。(i)それは善以外のなにももっていないのか。その善はその意味において、性質づけられないものなのか。(ii)それが善である限りにおいて、まったくそれだけの意味における善をもっているのか、あるいは、なんらかの制限を加えられて、多かれ少なかれ善とは外的な部分があるのか。この意味においてそれは限定を受けていないのだろうか。(iii)それはすべての善をもっているのか。善以外のものもあるのか。この三つの疑問は、同じ疑問の三つの側面だと思える。つまり、我々が語っているのは善と同一のものなのだろうか。