ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 3

 こうした反省から二つの結論に導かれる。一方において、生は、それが善である限りにおいて、それ自体正当化される、他方においては、完璧な善というのは見いだされない。それゆえ、我々は我々の性質の一側面を至上のものとし、他の側面はそれを助け、その規則に従属するのだとすると間違えることになる。この間違いについてはより詳しく扱う価値がある。


 善は満足であることは我々も認めた。そして、満足はどこで見いだされようと、そのかぎりにおいては善であることを我々は認めた。しかし、誰かが次のように主張したとすると、つまり、「よろしい、ここに満足がある。たとえば、私はそれをまさにここで、実際的な活動において見いだす。それゆえ、これは至上の善であり、他のすべてが従属すべきものだ。」と。我々はこれを受け入れることはできない。こうした議論は、我々が言及した間違いを例証するものとなろう。というのも、第一に、見いだされたのは全体的で、完全な善でないことは明らかだからである。第二に、これを越えたところにも、満足と善とが同様に見いだされるような生の側面があることは確かだからである。完全な善はそれぞれの場合にあり、それぞれにおいて不完全に存在し、それゆえ、どれもが至上というわけではない。一方において、我々は自分の本性を全体として経験し感じることができるが、この全体に反して、生のどの側面にも不適切さを認めることができる。そうであるために、我々は我々の全存在とその諸側面とを同一視できないし、その他すべてが一面的な至上さに従属するととることもできない。この点については、生がほとんど過ぎ去ったときに評決があらわれ、遅かれ早かれ、この発見が真として迎え入れられるに違いない。もし生が非活動的な快楽や熟考に占められていたら、あるいは、道徳的葛藤や宗教的感情に占められていたら、あるいはまたつまらぬ労働や休みも楽しみもない活動であったなら、生は失敗だったと感じるかもしれない。我々の真理は実在で詰まっているわけでないことは確かであり、美的な達成や楽しみを越えた目標があることも、社会や家庭内での生活を超えた価値がありうることも知っている。そうしたことは、善ではあるが、残り全部をひっくるめたものではないと感じる。制限されない善をもつものなど存在しないし、それゆえ、そのどれかに他のすべてが従うなどあり得ない。


 このことから、簡単に生の多様な側面を考え、そのそれぞれにある不完全性を示すことにしよう。*

 

*続く部分はある程度『仮象と実在』でいったことの繰り返しになる。458ページ