ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 1

 *生のあらゆる側面は、結局のところ、善に従属する、つまり、善を非常に広い意味にとればである。生のあらゆるところで、我々は、多かれ少なかれ、なぜという疑問を問うよう余儀なくされるように思われる、この問いに対する答えは、満足という事実、不安がないこと、あるいは押さえられているということに見いだされるように思える。我々は次々に訴えかけるが、物事のこの側面、多かれ少なかれこの側面をもっているものに最終的に引きつけられる。こうした意味で善というものがある限り、これ以上よいものがあり得ないと結論せざるを得ない。

 

*この章は、1906年の12月、そのとき考えていた本の序として書かれ(前書きを参照)、多少の躊躇はあったが、いま公表することにした。多少の付加と、ずっと多くの削除で変えられているが、全体としては当初の性格を失っていない。

 

 例外であろうとする理性と真理の主張はここでは維持されない。というのも、もし何が真理かと尋ねられたら、知性を満足させるものと答えざるを得ないからである。矛盾や無意味なものは、ある意味、我々を満足させないゆえに、真であることはできない。特殊な居心地の悪さと不安を生み出す。他方において、この不安を満足に変えるのが真理である。知性が善を見いだしたところに真理があるということができる。


 人間が何に関与しようと、何を感じ、為し、理解し、追求しようと、それが彼を満足させる限りは、善そのものである。*お望みなら、究極的な善の性質があると言ってもいい。なにかが満足させる限り、それを超えた訴えかけなど存在せず、それ自体で十分満足するものに合理的な主張など存在しない。例えば、哲学に関していえば、それが考える意思を前提としなければならないこと、自己矛盾することを進んでするなら、哲学とはかかわりえないとは古くから言われている。

 

*善、価値、値打ちはもちろんみな同じことである。『仮象』で与えた善の定義をいまでは一点だけ正しく思わないところがある。欲望が定義のなかに含まれるべきだとは考えていない。肯定的に感じることができる限り、そこには善が存在する。欲望は、少なくとも通常は必然的に付随して起きるものであり、本質から生じる存在ととることは間違っている。実際、私の本の議論を認める限りはそうである(403-4ページ)。美の場合を考えたときに、この真理をもっとも容易に理解できるだろう。善のなかに快楽を入れるとすると、私はここで何も言うことはない。どこまで、またいかなる意味において、その観念が含まれているかという問題を再び考慮してみたい。おそらく、未来において、私は善の一般的な性質についてより十分に扱うことができるかもしれない。