ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 4

 (a)最初に快楽をとれば、すぐにそれが善だという印象を与えられるだろう。原因がなんであれ、それが激しく純粋なものである限り、それは我々に絶対的な実在の感覚を与えるように思われる。しかし、他方において、快楽の純粋さについての疑問をおいておくとしても、生がある瞬間に含まれる、あるいは単純な感情に包まれることはあり得ないというのはもっとも共通した経験である。また、単なる快楽は、我々が快適なものからつくりだした抽象である。それゆえ、快適なもの、つまりは、他の事物を考慮に入れることなしには、快楽について結局何も言えないように思われる。そしてそうした他の事物が、本当に快楽の主体に依存しているのか、あるいはいかに依存しているのかを示すことは不可能に思われる。そして、誰かが自分の役割はそう選択されたと答えたとしても、それは証拠にはならず、その選択が考慮される必要がある。我々は快楽と喜ぶものとを理性によって区別しなければならず、私が理解する限り、我々は理性において、喜ぶものを快楽に従属させることはできない。別な風にいうならば、快楽が存在するところ、快楽を感じる完全な人間が、実際的で、他の活動力もあり、どの感情も完全に備わった人間がいる。快楽主義者は、一方では豊かな複雑性をいい、他方では快楽そのものをいって、第二のものが存在するためには第一のものが完全でなければならず、この世界には快楽以外の善は存在しないとする。しかし、この主張はそれ自体非合理的で、独断的なもので、最終的にはさらなる結論に導かれる。というのも、すでに見たように、あらゆるものが善に従属するなら、善は(以下のように帰結されるように思える)一にして至上の実在となり、それゆえ、最終的には快楽以外には何も残らないことになるからである。


 しかし、こうした帰結に対して、通常の快楽主義者は盲目である。彼は生の他のすべての側面の価値を否定し、最初から常識と衝突し、全生活を善の快楽に従属させることは、最終的に、擁護できない立場に置かれるということを理解していない。*

 

*『仮象と実在』373-4ページ、およびこの本の第十一章を参照。もちろん、このことは、善を発見するしるしとしてだけ快楽を用いて満足し、実際には善である他のことを否定しはしない快楽主義者には当てはまらない。

 

 

 

 (b)次に、実際の活動において、ひとはここが善であり実在であることは確かだと感じるかもしれない。しかし、それ自体において善であることを実践しようとする試みは、維持できない結果に我々を導くに違いない。実践は明らかに私によって存在を変更することであり、この変更は、それ自体をとれば、誰も望むことができない抽象だと思われる。善を為すことが単に行為、あるいはしたこと、あるいはしたことに伴うなんらかのもののの量で、為されたことの質とは独立し、関係がないならば、それを理解したとき、この立場もほとんど維持できないものとなる。我々はすべて、ある意味で、生を質的な全体と想定しているおり、それゆえ生を存在を変える側面へと従属させることはできない。*

 

*この点についてのさらなる説明はこの本の第六章を参照。