ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 5

 また、実践にはよく知られた不整合性がある。私は実践を実現化されていない観念に含み、依存するものとする。それは「そうなるべき」と「いまだ」という観念を含んでおり、実際に実行されるべき何かでるが、実行されるやいなや、直ちに実践的であることを終えてしまう。実践とはその存在に含まれた条件を永遠に果たさないことであり、それゆえ、それ自体究極的な満足を与えることができない。この不整合は、観念の側面からだと容易に認められる。観念は、「ここにはない」ものなので、「私の世界」をなんら限定せず、他方において、結局のところ観念は何かを修飾するので、*私のものではない世界において実在のものである。実践の外部に世界が存在し、実践がすべての事物を覆うのではないにしても、他方において、実践とは何らかの過程であり、実際に結びつきはないように思える二つの世界のあいだを輸送するものかのどちらかになる。この難点は、いかなる宗教でも、つまり不完全なものであればその仮定において顕著なものとなる。宗教においては完全な神であり、至上の実在である善は、実践において実行されねばならず、実在のものとなるためには、前提とされる。つまり、善は、宗教においては、非実在ととることができず、どこにでもある単なる実在ととることもできない。というのも、もしそうなら、善はもはや至上のものではなくなるだろう。それゆえ善は信仰によって、すでにここにある実在ととられねばならない。しかし、このことから、実践は変更にあるが、その変更はそれ自体では実在を限定しないことは明らかである。別の言葉で言えば、善を完全で至上のものだとみとめるなら、神は単なる実践的なものであることを止めることになる。神が、いかにそれ自体と不整合なものだとしても、それが私を十分に満足させれば結局のところ完全であろう、と答えても無益である。というのも、内的な不整合は、事物の本性によって、実際的な矛盾と不満足となってあらわれることは確かだからである。不整合な過程において実際に満足を与えるものは、それが私に満足を与えるかぎりにおいて、単なる過程ではない。過程のうちに入っているあいだは、ぶれているかもしれないが、それは目的の実現化である。

 

*この点については、第三章で論じる。

 

 (c)そして、美に完璧な無条件の善を求めることも、失望を生むだけである。ある形の美が彼にとっては全世界なのだというものもあるかもしれない。もしそうなら、全世界は実在の一部であることは見やすい。美しいものは、もしそれが達成されたとしても、すべての美ではなく、また追跡する労力と不安、それに追求が多かれ少なかれ失望に終わるかもしれないし、そうなるに違いないかもしれない。そして、美以外に生において他の目的も楽しみもないのならば、――他の目的や楽しみが確かにあるはずだが――少なくとも、美とともに多かれ少なかれ醜や、存在の気がかりや苦痛がある。端的に言って、美しくないものが存在し、生には美しくもなく、そうなり得ない側面があることは否定できない。芸術において美しくなり得ないものは存在せず、芸術家のヴィジョンは粗野なものから美を抽出するのかもしれない。しかし、いずれにせよ、芸術やヴィジョンは、それ自体完璧であっても、なんらかを外部に残しておかなければならず、彼らの至上性をかたくなに拒否する要素が存在する。「我々とはかけ離れた世界」においてのみ、完成がなされ、「音楽と月光と感情とがひとつのものとなる」。美の愛好者は、道徳の愛好者と同様に、信仰に舞い戻っていると非難される。我々が理解しうるところでは、彼にとって全体は、結局のところ、美しいのは確かである。しかし、他方において、美しいものであることは、なんらかの感覚の対象であり、その感覚とは感覚されるものとは別のものであり、すべてを包含する理想的な美はどこにも実現し得ないことになる。あるいは、それが実在かつ至上のものであるなら、単なる美しいものであることを止めることになる。


 (d)知的で、知的に理解しうる世界については、我々は多くをいう必要はない。その最も広い意味における科学は探求であり、決して完全に対象に達することはない。それは他の側面ともつれ合った生の一側面に過ぎず、また探求として実際的な側面をもっているので、実践の不整合性をになっている。いずれにしろ、その対象は、それに到達することができる限り、単なる真理の世界であり、すべての実在を含むわけではない。与えられた通りに理解すること、誰かに与えるために理解することは、理解においてさえ完全に所有することではないし、ましてやそれを楽しむことやすることと同じではない。


 存在と切り離された知識は善でもなければ実在でもなく、さらには、単なる存在の知識はそれ自体で満足することもできない。というのも、もしそれが知識を越えるものでないならば、多かれ少なかれ外部にある存在から離れてしまうことを余儀なくされるからである。端的に、知ることと、存在することは別であり、知識は自らを満足させることもできないし、ましてや人間全体を満足させることはない。


 完全な知識が実現されるというのも信仰である。探られるものは見いだされ、それ自体、見いだされることを待っている。しかし、それでは、探求は、探求としては究極的な実在を失うので、そして、哲学が生きるのは探求においてなので、そうした結末では、また哲学の終りを迎えることになる。*

 

*後に、15ページ、またいたるところで、この点に立ち戻ることになる。