ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 6

 (e)我々がこうした抽象を追い払ったとき、最終的に我々は究極的な善をあるより高次な生の全体性に置くことに導かれる。個人間での愛や友情、家族やそれより大きな集団に見いだされる社会的結合に、我々は最終的に具体的ですべてを包括する善に達すると主張できるかもしれない。しかし、この立場に多くの真理があったとしても、それを最終的なものとして受け入れることは不可能である。というのも、我々が見るところから判断するかぎり、個人のメンバーは、いかにそれが高度に結びついていようと、多かれ少なかれ、変化と偶然にからかわれているからである。彼らが結びつく全体は、それ自体有限であることの欠点をもっている。その存在は多かれ少なかれ不確実なものに思われるし、偶然に従属しており、他方においてその内的な存在は多かれ少なかれ狭さに苦しんでいる。我々人間の広さや親密さへの熱望を考えたとき、これを我々が知る通常の生にすべてに当てはめることは困難である。またその満足が、単にすでに知られたより高次の融合の充足であり得るのか理解することは困難である。我々の通常の生や至上の善は再び目に見えない世界に逃れ去ってしまう。どこかの神の都で、永遠の教会で、我々のもっとも内的な欲望を満足させかなえてくれる真の善を見つけるだろう。しかし、他方において、そうした実在は信仰においてのみ存在する。我々が至上の善や実在についてなにも知り得ないことを意味するわけではない。この生の部分をなす有限な魂の多様な形について無知であること、最終的に、内的、そして外的な多様性とともに、それらががどうして調和に達するのかわからないという意味である。それゆえ、主要な善は単に社会的なものであることを否定せざるを得ない。*1あるいは、別の側面からいえば、もし私が善を私が知っているような共通の生の拡張とするならば、私はその拡張を信仰にのみあると認めざるを得ない。そして、望まれた目的が達成されると、その地点において、出発点はどうなるのだろうか。別の言葉で言えば、個々人が本質的に代わり、変容するのかどうか私には無知である。*2

 

*1ここで私の心に浮かぶのは、愛は究極的なものだという反論である。それより高い融合はないことは私も認める。しかし、愛が個人間の融合であり、それらに属するものを完全に断言できるという意味では、知らない。もし我々が愛の意味を拡張し、我々が経験する以上のことだとするなら、我々は愛に必要だと思われる各個人の自己存在の量を保持しているか確かではない。
*2『倫理学研究』200-3ページ。『仮象と実在』415ページ参照。

 


 生のあらゆる側面が善をもち善を実現うることを見てきたが、他方において、どのような側面もそれ自体において善で、そのどれもが至上ではないことを見てきた。我々の本性は側面はつながっているように思われ、多かれ少なかれこのつながりはどこにおいてもあらわわれている。しかし、このつながりに対する完璧な真実は我々が把握できないように思われる。それゆえ、我々の存在の主張な側面は、それぞれがそれ自体において、相対的な独立を許されているに違いない。もし私が我々の本質を完全に根底から理解できるとするなら、おそらくここでとは異なった風に判断するものに従うことになろう。しかし、私にとっては、私が私である限り、我々の領域にあるあらゆる側面はある意味において至上であり、外からの指示に対して抵抗することが正当化される。しかしながら、哲学に関わりのないこの主要な帰結を展開しようとするつもりはない。


 自身の領域において哲学の至上性をを認めることは、多様な側面から攻撃を受けるかもしれないが、ここでは道徳と宗教からの攻撃に限定しよう。実践の要求は生全体に当てはまり、それゆえ哲学にも当てはまらねばならない。しかしこの主張は、よく根拠づけられており、生の全体を覆っているが、非常に深刻な制限に従っていると答ねばならない。*我々が非実践的な活動や享楽を扱わねばならなときはいつでも、実践によるその規定は外的なものにならなければならない。つまり、道徳性は、たとえば、私が芸術や哲学に従事する限界においてのみ私に指示することができるが、そうした限界内ではそれは追求の本性を述べることはできない。宗教や道徳性は、この限りにおいては、選択や気まぐれよりもよい立場にはないといえる。哲学することや描くことを選んだり選ばなかったりすることはあるかもしれないが、選んだ通りに完全に描いたり哲学したりすることができないのは確かである。それらのどちらを選び、どこまで進むとしても、外側から道徳と考えているものに決定づけられ得る。しかし、内側からのみ、それをすることの正確な方法を学ぶことができ、方法とは外部で正しいとされているものとは独立している。私の意志や良心は、端的に言って、どうやって真理を追究するのか告げてくれることはあり得ないし、それは馬の乗り方やピアノの弾き方を教えてくれないのと同じである。

 

*この問題についてのさらなる議論は第四章を参照されたい。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 5

 また、実践にはよく知られた不整合性がある。私は実践を実現化されていない観念に含み、依存するものとする。それは「そうなるべき」と「いまだ」という観念を含んでおり、実際に実行されるべき何かでるが、実行されるやいなや、直ちに実践的であることを終えてしまう。実践とはその存在に含まれた条件を永遠に果たさないことであり、それゆえ、それ自体究極的な満足を与えることができない。この不整合は、観念の側面からだと容易に認められる。観念は、「ここにはない」ものなので、「私の世界」をなんら限定せず、他方において、結局のところ観念は何かを修飾するので、*私のものではない世界において実在のものである。実践の外部に世界が存在し、実践がすべての事物を覆うのではないにしても、他方において、実践とは何らかの過程であり、実際に結びつきはないように思える二つの世界のあいだを輸送するものかのどちらかになる。この難点は、いかなる宗教でも、つまり不完全なものであればその仮定において顕著なものとなる。宗教においては完全な神であり、至上の実在である善は、実践において実行されねばならず、実在のものとなるためには、前提とされる。つまり、善は、宗教においては、非実在ととることができず、どこにでもある単なる実在ととることもできない。というのも、もしそうなら、善はもはや至上のものではなくなるだろう。それゆえ善は信仰によって、すでにここにある実在ととられねばならない。しかし、このことから、実践は変更にあるが、その変更はそれ自体では実在を限定しないことは明らかである。別の言葉で言えば、善を完全で至上のものだとみとめるなら、神は単なる実践的なものであることを止めることになる。神が、いかにそれ自体と不整合なものだとしても、それが私を十分に満足させれば結局のところ完全であろう、と答えても無益である。というのも、内的な不整合は、事物の本性によって、実際的な矛盾と不満足となってあらわれることは確かだからである。不整合な過程において実際に満足を与えるものは、それが私に満足を与えるかぎりにおいて、単なる過程ではない。過程のうちに入っているあいだは、ぶれているかもしれないが、それは目的の実現化である。

 

*この点については、第三章で論じる。

 

 (c)そして、美に完璧な無条件の善を求めることも、失望を生むだけである。ある形の美が彼にとっては全世界なのだというものもあるかもしれない。もしそうなら、全世界は実在の一部であることは見やすい。美しいものは、もしそれが達成されたとしても、すべての美ではなく、また追跡する労力と不安、それに追求が多かれ少なかれ失望に終わるかもしれないし、そうなるに違いないかもしれない。そして、美以外に生において他の目的も楽しみもないのならば、――他の目的や楽しみが確かにあるはずだが――少なくとも、美とともに多かれ少なかれ醜や、存在の気がかりや苦痛がある。端的に言って、美しくないものが存在し、生には美しくもなく、そうなり得ない側面があることは否定できない。芸術において美しくなり得ないものは存在せず、芸術家のヴィジョンは粗野なものから美を抽出するのかもしれない。しかし、いずれにせよ、芸術やヴィジョンは、それ自体完璧であっても、なんらかを外部に残しておかなければならず、彼らの至上性をかたくなに拒否する要素が存在する。「我々とはかけ離れた世界」においてのみ、完成がなされ、「音楽と月光と感情とがひとつのものとなる」。美の愛好者は、道徳の愛好者と同様に、信仰に舞い戻っていると非難される。我々が理解しうるところでは、彼にとって全体は、結局のところ、美しいのは確かである。しかし、他方において、美しいものであることは、なんらかの感覚の対象であり、その感覚とは感覚されるものとは別のものであり、すべてを包含する理想的な美はどこにも実現し得ないことになる。あるいは、それが実在かつ至上のものであるなら、単なる美しいものであることを止めることになる。


 (d)知的で、知的に理解しうる世界については、我々は多くをいう必要はない。その最も広い意味における科学は探求であり、決して完全に対象に達することはない。それは他の側面ともつれ合った生の一側面に過ぎず、また探求として実際的な側面をもっているので、実践の不整合性をになっている。いずれにしろ、その対象は、それに到達することができる限り、単なる真理の世界であり、すべての実在を含むわけではない。与えられた通りに理解すること、誰かに与えるために理解することは、理解においてさえ完全に所有することではないし、ましてやそれを楽しむことやすることと同じではない。


 存在と切り離された知識は善でもなければ実在でもなく、さらには、単なる存在の知識はそれ自体で満足することもできない。というのも、もしそれが知識を越えるものでないならば、多かれ少なかれ外部にある存在から離れてしまうことを余儀なくされるからである。端的に、知ることと、存在することは別であり、知識は自らを満足させることもできないし、ましてや人間全体を満足させることはない。


 完全な知識が実現されるというのも信仰である。探られるものは見いだされ、それ自体、見いだされることを待っている。しかし、それでは、探求は、探求としては究極的な実在を失うので、そして、哲学が生きるのは探求においてなので、そうした結末では、また哲学の終りを迎えることになる。*

 

*後に、15ページ、またいたるところで、この点に立ち戻ることになる。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 4

 (a)最初に快楽をとれば、すぐにそれが善だという印象を与えられるだろう。原因がなんであれ、それが激しく純粋なものである限り、それは我々に絶対的な実在の感覚を与えるように思われる。しかし、他方において、快楽の純粋さについての疑問をおいておくとしても、生がある瞬間に含まれる、あるいは単純な感情に包まれることはあり得ないというのはもっとも共通した経験である。また、単なる快楽は、我々が快適なものからつくりだした抽象である。それゆえ、快適なもの、つまりは、他の事物を考慮に入れることなしには、快楽について結局何も言えないように思われる。そしてそうした他の事物が、本当に快楽の主体に依存しているのか、あるいはいかに依存しているのかを示すことは不可能に思われる。そして、誰かが自分の役割はそう選択されたと答えたとしても、それは証拠にはならず、その選択が考慮される必要がある。我々は快楽と喜ぶものとを理性によって区別しなければならず、私が理解する限り、我々は理性において、喜ぶものを快楽に従属させることはできない。別な風にいうならば、快楽が存在するところ、快楽を感じる完全な人間が、実際的で、他の活動力もあり、どの感情も完全に備わった人間がいる。快楽主義者は、一方では豊かな複雑性をいい、他方では快楽そのものをいって、第二のものが存在するためには第一のものが完全でなければならず、この世界には快楽以外の善は存在しないとする。しかし、この主張はそれ自体非合理的で、独断的なもので、最終的にはさらなる結論に導かれる。というのも、すでに見たように、あらゆるものが善に従属するなら、善は(以下のように帰結されるように思える)一にして至上の実在となり、それゆえ、最終的には快楽以外には何も残らないことになるからである。


 しかし、こうした帰結に対して、通常の快楽主義者は盲目である。彼は生の他のすべての側面の価値を否定し、最初から常識と衝突し、全生活を善の快楽に従属させることは、最終的に、擁護できない立場に置かれるということを理解していない。*

 

*『仮象と実在』373-4ページ、およびこの本の第十一章を参照。もちろん、このことは、善を発見するしるしとしてだけ快楽を用いて満足し、実際には善である他のことを否定しはしない快楽主義者には当てはまらない。

 

 

 

 (b)次に、実際の活動において、ひとはここが善であり実在であることは確かだと感じるかもしれない。しかし、それ自体において善であることを実践しようとする試みは、維持できない結果に我々を導くに違いない。実践は明らかに私によって存在を変更することであり、この変更は、それ自体をとれば、誰も望むことができない抽象だと思われる。善を為すことが単に行為、あるいはしたこと、あるいはしたことに伴うなんらかのもののの量で、為されたことの質とは独立し、関係がないならば、それを理解したとき、この立場もほとんど維持できないものとなる。我々はすべて、ある意味で、生を質的な全体と想定しているおり、それゆえ生を存在を変える側面へと従属させることはできない。*

 

*この点についてのさらなる説明はこの本の第六章を参照。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 3

 こうした反省から二つの結論に導かれる。一方において、生は、それが善である限りにおいて、それ自体正当化される、他方においては、完璧な善というのは見いだされない。それゆえ、我々は我々の性質の一側面を至上のものとし、他の側面はそれを助け、その規則に従属するのだとすると間違えることになる。この間違いについてはより詳しく扱う価値がある。


 善は満足であることは我々も認めた。そして、満足はどこで見いだされようと、そのかぎりにおいては善であることを我々は認めた。しかし、誰かが次のように主張したとすると、つまり、「よろしい、ここに満足がある。たとえば、私はそれをまさにここで、実際的な活動において見いだす。それゆえ、これは至上の善であり、他のすべてが従属すべきものだ。」と。我々はこれを受け入れることはできない。こうした議論は、我々が言及した間違いを例証するものとなろう。というのも、第一に、見いだされたのは全体的で、完全な善でないことは明らかだからである。第二に、これを越えたところにも、満足と善とが同様に見いだされるような生の側面があることは確かだからである。完全な善はそれぞれの場合にあり、それぞれにおいて不完全に存在し、それゆえ、どれもが至上というわけではない。一方において、我々は自分の本性を全体として経験し感じることができるが、この全体に反して、生のどの側面にも不適切さを認めることができる。そうであるために、我々は我々の全存在とその諸側面とを同一視できないし、その他すべてが一面的な至上さに従属するととることもできない。この点については、生がほとんど過ぎ去ったときに評決があらわれ、遅かれ早かれ、この発見が真として迎え入れられるに違いない。もし生が非活動的な快楽や熟考に占められていたら、あるいは、道徳的葛藤や宗教的感情に占められていたら、あるいはまたつまらぬ労働や休みも楽しみもない活動であったなら、生は失敗だったと感じるかもしれない。我々の真理は実在で詰まっているわけでないことは確かであり、美的な達成や楽しみを越えた目標があることも、社会や家庭内での生活を超えた価値がありうることも知っている。そうしたことは、善ではあるが、残り全部をひっくるめたものではないと感じる。制限されない善をもつものなど存在しないし、それゆえ、そのどれかに他のすべてが従うなどあり得ない。


 このことから、簡単に生の多様な側面を考え、そのそれぞれにある不完全性を示すことにしよう。*

 

*続く部分はある程度『仮象と実在』でいったことの繰り返しになる。458ページ

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 2

 端的に言って、すべての思考は、暗黙のうちだろうと明らかにされようと、ある種の検証を受け入れいることを同意することにある。別の言葉で言えば、ある種の満足を追求することにあり、そうした追求に関与しないかぎりは、議論は誰にも訴えかけることはない。哲学と同様に、生のあらゆるところで同じ原理が働いている。単なる楽しみや好みであろうと、道徳的宗教的信念の優先順位だろうと、美的感覚や趣味であろうと、そうした相違のなかに我々は一点同一のものを見いだす。あなたに与えられるものがくつろぎと満足を提示するかぎり、それがなんだろうと、善である。外部からそれに反論するものはなにもない。あなたがどこにいようと、そこにとどまっているかぎり、自分の存在とともに満足し、暴力*からも離れて、安全でいられる。境界線がなければ、野営地であっても敵は侵入してこないだろう。人間は理性から恥じ入ることもないし、感情から合理的に論じることができないのもよく知られている。

 

*最終的に単なる外的な力というものが存在するのかという疑問にここで関わるつもりはない。しかし、個人に関するかぎり、実際的な面からいって、それは明らかに存在する。

 

 しかし、他方において、どこにも完全な善は存在しないことは古くからの経験である。善は、おそらく我々が最初に配置しようとしたところには実際にはない。別の言葉で言えば、生のなかに、それのみをそれだけとって、完全に満足のいくものは存在しない。我々の生にはいくつかの主要な側面があり、それぞれの側面のなかでも、ある点はよりよくまたそれ以上のことがある。そして、我々が最終的に見いだすのは、どの側面もそれ自体で善であるとか、混じりけのない善であることはあり得ないということである。*生のすべてのものは不完全で、自らを超えた絶対的な充足を求めている。かくして、生においては、すべてのものが従属的で、生に従属すると最終的にはいえるだろう。

 

*善だと主張されるものについては我々は次のような問題を投げかけることができる。(i)それは善以外のなにももっていないのか。その善はその意味において、性質づけられないものなのか。(ii)それが善である限りにおいて、まったくそれだけの意味における善をもっているのか、あるいは、なんらかの制限を加えられて、多かれ少なかれ善とは外的な部分があるのか。この意味においてそれは限定を受けていないのだろうか。(iii)それはすべての善をもっているのか。善以外のものもあるのか。この三つの疑問は、同じ疑問の三つの側面だと思える。つまり、我々が語っているのは善と同一のものなのだろうか。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 1

 *生のあらゆる側面は、結局のところ、善に従属する、つまり、善を非常に広い意味にとればである。生のあらゆるところで、我々は、多かれ少なかれ、なぜという疑問を問うよう余儀なくされるように思われる、この問いに対する答えは、満足という事実、不安がないこと、あるいは押さえられているということに見いだされるように思える。我々は次々に訴えかけるが、物事のこの側面、多かれ少なかれこの側面をもっているものに最終的に引きつけられる。こうした意味で善というものがある限り、これ以上よいものがあり得ないと結論せざるを得ない。

 

*この章は、1906年の12月、そのとき考えていた本の序として書かれ(前書きを参照)、多少の躊躇はあったが、いま公表することにした。多少の付加と、ずっと多くの削除で変えられているが、全体としては当初の性格を失っていない。

 

 例外であろうとする理性と真理の主張はここでは維持されない。というのも、もし何が真理かと尋ねられたら、知性を満足させるものと答えざるを得ないからである。矛盾や無意味なものは、ある意味、我々を満足させないゆえに、真であることはできない。特殊な居心地の悪さと不安を生み出す。他方において、この不安を満足に変えるのが真理である。知性が善を見いだしたところに真理があるということができる。


 人間が何に関与しようと、何を感じ、為し、理解し、追求しようと、それが彼を満足させる限りは、善そのものである。*お望みなら、究極的な善の性質があると言ってもいい。なにかが満足させる限り、それを超えた訴えかけなど存在せず、それ自体で十分満足するものに合理的な主張など存在しない。例えば、哲学に関していえば、それが考える意思を前提としなければならないこと、自己矛盾することを進んでするなら、哲学とはかかわりえないとは古くから言われている。

 

*善、価値、値打ちはもちろんみな同じことである。『仮象』で与えた善の定義をいまでは一点だけ正しく思わないところがある。欲望が定義のなかに含まれるべきだとは考えていない。肯定的に感じることができる限り、そこには善が存在する。欲望は、少なくとも通常は必然的に付随して起きるものであり、本質から生じる存在ととることは間違っている。実際、私の本の議論を認める限りはそうである(403-4ページ)。美の場合を考えたときに、この真理をもっとも容易に理解できるだろう。善のなかに快楽を入れるとすると、私はここで何も言うことはない。どこまで、またいかなる意味において、その観念が含まれているかという問題を再び考慮してみたい。おそらく、未来において、私は善の一般的な性質についてより十分に扱うことができるかもしれない。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 前書き

 この本は、主に『マインド』に掲載された論文からなっている。『哲学的レヴュー』に最初に発表されたものも加えられ、これまで発表されていないものもいくつかある。三編の例外を除き、後はここ五、六年のものである。章立てにされているのは、言及するときの都合もあるが、そのほとんどが、多かれ少なかれ、かつて書こうとしていた本の章をあらわしているからである。


 題名は、内容の主な主題と目的を示していると思う。知識、真理、実在の本性と基準について形式的な考察を行っているわけではないが、主要な問題は繰り返され、何らかの形で全体に存在している。不完全さや未熟さは、読者には明らかだと思うが、上に述べたような探求の必要を強調し、刺激することにあるで許してもらえると思う。基準についての一般的な問題がより差し迫った時期、達成があろうと、ある試みがなされるのだろうと、その答えがよりよい結果を約束しているようなときは滅多にあるものではないと想像できる。しかし、ここでは以前に主張したことを超えることはほとんど提示できないだろう。この本の多様な部分をつなぎ合わせている内的な連関は、最終章で付け加えることになるだろう。


 プラグマティズムについて多くのページを割くつもりはなかった。その主題は私の心には相応の場所を占めてはいなかったのである。しかし、ある種自己弁護のような形で書かれたものを読んでくれた読者は、もはや私には自分の希望を聞き入れてもらう自由さえないことを認めてくれるだろう。もし長すぎるとしても、その議論がいくつかの興味深い点に光を投げかけていることを見いだしてくれるだろうと思う。いずれにしろ、治療法は読者のなかにある。他方において、「根源的経験論」の検証が読まれないままにとどまったら残念なことである。


 私の経歴も終わりに近づき、(どんな学派や潮流が時に応じて流行したとしても)我々のなかに形而上学的探求へ献身するものが増えていることは満足である。この五十年に、イギリスの哲学的思考の一般的レベルがどれだけ上がったかは信じられぬほどである。せいぜい後できるのは、散らばった書き物を集め、もはや書き直す望みのない初期の本とともに、再出版するくらいだろう。